少年期と将軍就任
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天文5年(1536年)3月10日、第12代将軍・足利義晴の長男として、東山南禅寺で誕生した。母は近衛尚通の娘・慶寿院 。幼名は菊幢丸(きくどうまる)と名付けられた。
将軍と御台所の間に生まれた男子は足利義尚以来であり、摂関家出身の女性を母に持つ将軍家の男子は菊幢丸が初めてであった。
誕生直後、父の義晴が近衛尚通に頼んだ結果、菊幢丸はその猶子となった[注釈 3]。尚通は未来の将軍の外祖父になれたことを喜び、菊幢丸の誕生を「祝着極まりなきものなり」と日記に記している。
この頃の幕府では、父・義晴と管領の細川晴元が互いの権威争いで対立し、義晴は戦をするたびに敗れて近江国坂本に逃れ、菊幢丸もそれにたびたび従った。その後も父とともに、京都への復帰と坂本・朽木への脱出を繰り返した。また、それまでの将軍家の嫡男は政所頭人である伊勢氏の邸宅で育てられる慣例であったが、菊幢丸は両親の手元で育てられた。
天文15年(1546年)7月27日、菊幢丸は朝廷より、義藤(よしふじ)の諱を与えられた。また、同年11月19日には朝廷から将軍の嫡子が代々任じられてきた左馬頭に任じられた。これらは全て、父・義晴が朝廷に依頼し、実現したものであった。
同年12月19日、義藤の元服が執り行われた。元服式は近江坂本の日吉神社(現日吉大社)祠官・樹下成保の第で行われ、六角氏の当主・六角定頼が烏帽子親となった。将軍の烏帽子親は管領が務める慣例になっていたが、義晴は定頼を管領代に任じて元服を行った。
だが、管領ではない定頼に烏帽子親を務めさせたことは、晴元の管領としての権威を否定するものであった(そもそも、晴元は管領に任じられていなかったとする説もある)。なお、遊佐長教が細川氏綱を烏帽子親にするように求めて定頼に阻止されたりするなど、当時の流動的な政治背景を元に晴元の舅である定頼を烏帽子親にしたとする見方もある。定頼自身は義晴から烏帽子親になるように命じられ、何度も固辞したものの、義晴は辞退を許さなかったという。
翌20日、将軍宣下の儀式が行われ、義藤はわずか11歳にして父から将軍職を譲られ、正式に第13代将軍となった。このとき、京都より赴いた朝廷からの勅使が坂本に到着し、将軍宣下を行った。また、長教がこの儀式で重要な役割を果たしており、6千疋を献上している。
一連の行動は、父・義晴がかつての先例に倣ったものであったされ、その先例を息子にも踏襲させようとした可能性が指摘されている。義晴は大永元年(1522年)12月・当時11歳で元服・将軍宣下を行ったことに加え、自身が健在のうちに実子に将軍の地位を譲ってこれを後見する考えがあったとされる。また、朝廷は義晴がこのまま政務や京都警固の任を放棄することを憂慮し、引き留めの意図を含めて、義藤の将軍宣下の翌日に義晴を右近衛大将に急遽任じている。
同月の末、義藤は父・義晴とともに坂本を離れ、京の東山慈照寺に戻った。義藤はその直後より、将軍としての活動を開始した。
天文16年正月、細川氏綱の有力武将で京都を任せられていた細川国慶が、公家らから地子銭を横領し、被害にあった公家らが怒ったために騒動が起きた。11日に騒動は収まったかのように見えたが、義藤は国慶を将軍の「御敵」とし、「成敗すべし」との号令を下した。国慶は義藤に謝罪したが、義藤はこれを許さず、窮した国慶は京の郊外・高雄に出奔した。
正月26日、義藤は父・義晴とともに内裏に参内して、後奈良天皇に拝謁し、賀事を献じた。その際、義藤は六角氏の兵3千を率いて洛中を行進し、その武威を示した。
細川晴元との戦い
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父・義晴は没落気味であった細川晴元と決別し、細川氏綱と手を結んだが、晴元も黙ってはいなかった。晴元は報復として、阿波で庇護していた義晴の兄弟・足利義維を擁立した。晴元は義晴を決別するまで支援しつつも、一方で義維を庇護するという、「ねじれた関係」を持っていた。
だが、この事態は六角定頼を悩ませた。定頼にとって、義晴は晴元とともにそれまで支えてきた同志であり、義藤もまた自身が烏帽子親を務めた人物だった。一方の晴元もまた、自身の娘婿であり、近しい存在であった。もし晴元に味方すれば、義藤の将軍としての権威を否定し、義維を将軍として認めることになるからであった。
そのため、定頼は義晴・義藤父子と晴元を和解させようとした。その一環として、大坂の石山本願寺に嫁ぐことが内定していた晴元の娘を、義藤の御台所にしようと画策した。だがこの話は強引すぎたため、うまくいかなかった。その間にも、義晴・義藤と晴元の関係は悪化し、晴元は各地で氏綱派を打ち負かし、京へと迫った。
3月29日、義藤と義晴は身の危険を感じ、北白川に建設していた将軍山城へと逃げ、ここに籠城した。そして、晴元との対決姿勢を鮮明にしたため、定頼は両者の板挟みになって窮した。
7月12日、義藤と義晴の籠城する将軍山城は、定頼と晴元の大軍に包囲された。定頼は父子に対して、晴元との和解を強いた。定頼の背反により、父子は為す術を失い、全面的にその要求を受け入れざるを得なくなった。
7月19日、義藤と義晴は将軍山城に火を放ち、城を出て近江坂本に向かった。だが、29日に定頼の仲介のもと、晴元と坂本で和睦した。このとき、義藤は晴元と面会したが、義晴は晴元と面会しなかった。他方、この和解により、晴元の支援していた足利義維は立場がなくなり、同年12月に堺から四国へと戻った。
天文17年4月、定頼は大和に入り、氏綱派の遊佐長教と面会し、晴元派と氏綱派の和解を取り付けた。これにより、細川一門の騒擾は収まり、畿内の政情も安定した。そのため、6月17日に義藤と義晴は坂本から京へと戻り、今出川御所に入った。
三好長慶との戦い
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ところが、細川晴元の家臣で、畿内に一大勢力を築きつつあった三好氏の当主・三好長慶が晴元を裏切って、細川氏綱の陣営に転属した。その理由は、晴元が同族の三好政長を重用し、長慶を討伐しようとしたため、主君によって「逆臣」とされてしまったことにあった。
天文18年(1549年)6月24日、長慶は摂津江口で政長を破り、討ち取った(江口の戦い)。これにより、政長を支援していた晴元は立場が悪くなり、同月28日に義藤と義晴は晴元に伴われ、近衛稙家や久我晴通などとともに、京都を脱出し、六角定頼を頼り、近江坂本へ退避した。
京都を離れる際、義藤は今出川御所の近傍にあった相国寺に御所の留守を命じ、相国寺は上意を受け、御所の留守番を昼夜果たした。この時期、義藤自らが御内書を発給し始めているが、まだ若年ということもあり大御所である義晴の存命中は義晴名義の、その没後は生母である慶寿院が御内書を発給している例がある。
7月19日、長慶が氏綱を奉じて、上洛を果たした。義藤方に打撃を与えるため、松永久秀の弟・松永長頼 (内藤宗勝)は氏綱に与えられたと称して、山科七郷を横領した。また、長頼は今村慶満とともに、配下の進士氏の所領である石田・小栗栖も押さえた。長慶の弟・十河一存もまた、伏見宮家領の上三栖庄を押さえるなど、三好方は京都の荘園を次々に押さえた。
義藤としてはすぐに帰京できるという考えを持っていたが、晴元と長慶の戦いは決着がつきそうになかった。そのうえ、同年暮れから義晴が「水腫張満」という全身がむくんだ状態の病に臥し、翌天文19年(1550年)正月になっても改善しなかった。義藤は父のためにすぐにでも京に戻ろうと考え、晴元とともに三好方への反撃の準備を開始した。
2月、義藤は義晴とともに、東山の慈照寺の近くに中尾城を築いた。また、3月7日には坂本を出て、穴太に進んだ。次いで、4月には京と近江を結ぶ北白川にも城塞を築いた。
5月4日、義晴が穴太にて死去した(『万松院殿穴太記』)。 この時、義藤は穴太から比叡辻の宝泉寺に後退していたため、その葬儀に立ち会うことはなかった。義藤は宝泉寺を御座所とし、細川晴元や六角定頼と連携しつつ、反撃の機会を待った。
7月14日、三好勢が義藤の拠点である京の東郊外に侵攻した。細川勢らは戦意に乏しく、京の東郊外から出撃せず、晴元も戦わずに戦線を離脱し、越前へと向かった。三好勢は細川・六角勢が出撃してこなかったため、山崎へと撤退した。
11月19日、準備を整えた三好勢4万が京へとなだれ込み、細川・六角勢は応戦したものの、三好勢に敗退した。義藤も中尾城で指揮を取っていたが、同月21日に三好勢が押し寄せてきたため、中尾城を自焼して、近江堅田へと逃れた(中尾城の戦い)。
天文20年(1551年)1月末、政所頭人である伊勢貞孝が義藤を強引に京に連れ戻して、三好方との和睦を図ろうとするが失敗した。だが、貞孝は奉公衆の進士賢光らを連れて、30日に京に戻り、三好方に離反した。これを知った六角定頼の勧めにより、2月10日に義藤は朽木へ移った。
3月14日、京都の貞孝の屋敷において開かれた宴会において、進士賢光が長慶を3度にわたって刀で切りつけた。だが、賢光による暗殺劇は長慶に軽い傷を負わす程度に終わってしまい、賢光はその場で自害した。これは義藤が貞孝の屋敷に長慶が呼ばれるとの情報を得て、進士賢光を伊勢邸で行われた宴席に潜入させ、長慶を暗殺しようと目論んだものであった。
翌15日、三好政生や香西元成ら幕府軍が丹波の宇津から出撃し、東山一帯を焼き払ったが、16日には三好長虎ら率いる三好軍2万がこれを撃退した。長慶暗殺未遂事件とこの幕府軍の京都攻めは明らかに連動したものであり、義藤の策動であったと考えられる。
5月5日、親長慶派の河内守護代・遊佐長教が時宗の僧侶・珠阿弥に暗殺された。だが、珠阿弥は「敵人」に買収されていたといわれ、この事件も義藤の仕業とされるなど、畿内に不穏な空気が漂った。
7月、三好政生や香西元成を主力とした幕府軍が再び、京の奪回を図って侵入した。だが、松永久秀とその弟の松永長頼によって破られた(相国寺の戦い)。
長慶との和解・決別
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天文21年(1552年)1月、六角定頼が死去し、息子の義賢がその跡を継いだ。六角氏はこの頃、朽木の義藤を支援して三好氏と対立していたが、定頼が死ぬと、義藤の入京及び氏綱の家督継承と晴元の出家を条件として、直ちに和平を申し出た。これにより、義藤と三好方との間で和平が急速に進み、長慶を宥免して和解した。また、義藤は細川氏綱を細川氏の当主と認めて晴元と決別したため、晴元は見捨てられる形となり、若狭へと逃れた。
同月23日、義藤は三好氏と和解したことにより、近江の朽木を出発し、翌24日には比良を経て比叡辻に至り、28日には近衛稙家ら3千を率いて京へと入った。義藤は入京の際、衣装や刀を美々しく飾り立てた数千の兵を率い、多くの見物人の前を堂々と進んだという。帰京後、義藤がどこに住んだのかは定かではないが、今出川御所に居したと考えられている。
2月、義藤は三好長慶を幕府の御供衆とし、幕臣に列した。この称号は将軍の有力近臣にしか与えられない称号でもあった。また、長慶が推す細川氏綱が京兆家、弟の細川藤賢が典厩家を相続することが認められた。すでに畿内の覇権は細川氏か三好氏に移りつつあったが、この頃より三好氏は細川氏と同等、あるいはそれ以上の存在として台頭してきた。
伊勢貞孝も義藤が三好氏と和解すると赦免され、義藤のもとに帰参した。貞孝は長慶と深い絆で結ばれ、親三好の幕臣の同志を集めた。それにより、幕臣の中に親三好派と反三好派が生まれ、次第に反目するようになっていった。やがて、義藤の側近である奉公衆の上野信孝が台頭し、これに反発する幕臣との確執が強まった。
同年6月、義藤が伊勢貞孝らの反対を押し切って、山名氏や赤松氏の守護職を奪い、尼子晴久を8か国守護に任じたことで、幕府内に動揺が生じた。
同年10月、細川晴元が三好勢を丹波で撃破した。晴元は義藤と決別したのち、丹波各地を巡って味方を集め、再起を図ったのであった。その後、晴元は勢いに乗り、京の近郊まで出撃し、三好方と小競り合いをするようになった。
同年11月、義藤は京の郊外、清水寺近くの霊山に、新たな山城である東山霊山城を築いた。これは義藤が身の危険を感じたからとされ、晴元の兵が京の郊外に出没したと聞くと、義藤は洛中の今出川御所を出てこの城に入り、生母をはじめとする女性は清水寺に入れた。将軍の近臣らもまた、清水寺近くに陣を構えていた。
天文22年(1553年)1月、細川晴元の反撃により、京周辺の政情が不安定になると、反三好派の幕臣が長慶排除のために策動するようになっていった。反三好派の上野信孝らは密かに晴元と内通し、長慶を除こうとした。
閏1月1日、長慶は義藤への挨拶のため、公家衆や奉公衆・御供衆らともにそのもとに出向いた。ところが、この頃には長慶を排除するという噂が広まっていたため、8日に身の危険を感じた長慶は京から淀城へと移った。
2月、親三好派の伊勢貞孝が信孝らの追放の諫言を義藤に行い、これに義晴・義藤に長年従って三好氏と戦ってきた大舘晴光や朽木稙綱も同調した。親三好派の幕臣もまた、長慶と密に連絡を取り合い、反三好派の幕臣の処罰を訴えるになっていった。そのため、義藤は信孝ら反三好派の幕臣らを処罰し、彼らから三好方に人質を出させることにした。だが、幕臣は親三好派と反三好派に分裂しており、義藤は三好か細川のどちらにつくか、厳しい選択を突き付けられた。
同月26日、義藤は長慶を京に呼び戻し、清水寺に招き、自ら対面した。義藤と長慶がここで今後の相互協力を確認し合ったことで、伊勢貞孝ら親三好派の幕臣は満足した。このとき、上野信孝以下の6人の幕臣から人質が徴収された。
3月8日、義藤は東山霊山城に入城し、長慶との和約を破棄、三好氏との断交を決断した。そして、晴元と手を組み、長慶との戦端を開いた。上野信孝ら反三好派の幕臣が義藤に働きかけた結果だと考えられ、わずか10日ほどでの方針変換であった。この時期は畿内の覇権が細川氏から三好氏に移る「端境期」であり、両者ともに圧倒的な存在ではなく、どちらと手を組むかという判断は非常に難しいものであった。
7月28日、義藤は晴元の諸将を召し出して、晴元を赦免し、同時に長慶を将軍の「御敵」に指名した。義藤は東山霊山城を出て、北山に陣を敷き、翌29日には晴元の諸将と上野信孝や大舘輝氏ら幕臣との間で軍議が開かれ、京の三好方の拠点・西院小泉城を攻めることで合意した。このとき、義藤は三好政生、香西元成、十河盛重ら諸将に酒を下賜した。
30日、義藤自身が軍勢を指揮し、西院小泉城を包囲して攻めた。だが、義藤が出陣していたにもかかわらず、晴元の諸将は兵の消耗を恐れてか、一向に攻撃しようとしなかった。
8月1日、長慶が芥川山城に抑えの兵を残して、2万5千の軍勢をもって京に侵攻し、幕府軍が籠城する東山霊山城を攻めた(東山霊山城の戦い)。籠城する幕府軍は猛攻に耐え切れず、三好軍により落城し、火を放たれた。このとき、義藤は船岡山で迎撃の陣を敷いていたが、義藤が頼みとしていた晴元は三好方の猛攻に恐れをなし、ほとんど一戦もせずに退却してしまった。
そのため、義藤は晴元や近衛稙家らとともに京を離れ、北へと向かった。まず、杉坂に下り、3日に丹波山国庄の浄福寺に、5日は近江龍華に至った。だが、長慶は「将軍に随伴する者は武家・公家に関わらず、知行を没収する」と通達したため、公家の高倉永相をはじめ随伴者の多くが義藤を見捨てて帰京し、義藤に従う者はわずか40人ほどになった。また、伊勢貞助や結城忠正のように奉公衆でありながら、三好氏の家臣に準じた立場で活動する者も現れるようになった。
朽木での幕府政治
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8月30日、義藤に朽木元綱(稙綱の孫)を頼って、近江朽木に逃れ、この地を再び御座所にした。そして、以降5年間をこの地で過ごした。だが、義藤はこの地で六角義賢らの支援も得たほか、諸国の大名らとも連絡を取り合った。
10月、長慶は足利義維を阿波から上洛させ、新将軍として擁立し、義藤と全面対決の姿勢を見せていた。だが、長慶は結局のところ、義維を上洛させず、また朽木を攻めるようなこともしなかった。その後、長慶は義藤に味方している大名が決して少なくはないことを見て、和睦を模索したが、義藤と長慶の和睦が実らず、膠着状態が続いた。
だが、同月に奉公衆の石谷光政と公家の葉室頼房との間で、桂西庄の新坊分をめぐって相論が発生した。光政は前年に義藤からその安堵を受けていたが、頼房は公家の山科言継に証文を用意してもらい、長慶やその家臣に提出し、審議が行われた結果、23日に頼房の訴えを認めた。つまり、長慶は義藤の裁許を破棄し、自身の裁許を優先させている。このように、義藤が京を離れている間、京都や遠国の相論に三好氏が関与する形となった。
天文23年(1554年)2月12日、義藤は朽木に滞在中、従三位に昇叙するとともに、名を義輝に改めている。改名することにより、心機一転を図ったと考えられている。
弘治2年(1556年)4月、義輝は朝倉義景と加賀一向一揆の和平調停を行い、朝倉氏を加賀から撤兵した。この調停に関しては、本願寺が義輝に依頼したと考えられている。加賀は本願寺の領国であったが、前年に朝倉氏の侵攻を受け、加賀衆に数千の死者を出し、さらには加賀四郡のうち江沼郡を奪われていた。朝倉氏もまた、大勝はしたものの、その後は加賀衆の抵抗を受けて攻めあぐねており、指揮官の朝倉教景が病没する事態に発生していた。そこで、朝倉氏は加賀衆に苦戦したからというわけではなく、「将軍の上意に応じた」という名分をもって、この和睦を飲んで撤兵したのであった。
本願寺は朝倉氏が加賀から撤退したことを受け、危機を脱することとなり、法主・顕如に酒を献じて喜び合った。同時に、本願寺は義輝との連携は役立つと実感し、弘治3年(1557年)4月に顕如のもとに細川晴元の娘が六角義賢の猶子として輿入れすることになった。
晴元と定頼はともに義輝を支える存在であり、その娘が顕如と結婚したということは、義輝と本願寺が同盟したことを意味した。これにより、三好氏の支配する京都は、東の義輝側の勢力、西の大阪本願寺、つまり東西から挟撃される可能性を帯びた。
三好氏への再戦
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弘治4年(永禄元年、1558年)2月、朝廷は正親町天皇の即位のため、年号を永禄に改元した。だが、京から離れた朽木にいた義輝は改元を知らされておらず、それまで古い年号の弘治を使用し続けることとなったため、朝廷に抗議している。改元は戦国時代といえど、朝廷と室町幕府の協議の上で行われてきたが、朝廷は義輝に相談せず、三好長慶にのみ相談して改元を実施していた[90]。
3月13日、義輝は改元の一件もあって、三好政権打倒のため、朽木で挙兵した[90]。義輝は朽木で挙兵したのち、龍花に向かい、4月には和邇に移った。
5月3日、義輝は六角義賢(承禎)の支援で晴元とともに坂本に移り、本誓寺に入って、京の様子を窺った。
6月2日、三好方は義輝の挙兵を受けて、近江から京に向かう要衝であった将軍山を占拠し、2千の兵を以て布陣させた。対して、義輝は細川晴元や上野信孝らとともに5千の兵で坂本から如意ヶ嶽に移動し、ここに布陣した。
同月7日、三好勢は三好長逸や松永久秀など各地の将兵が集まり、1万5千の兵の大軍となっていた。これを見た将軍山の三好軍が営塁を焼いて、京の三好本軍に合流したため、義輝は将軍山へと入った。すると、三好軍は義輝が布陣していた如意ヶ嶽に向かい、ここを焼き払った。
9日、三好軍が義輝の布陣する将軍山を攻撃し、義輝は京の東郊外・北白川各所で迎撃した(北白川の戦い)。義輝は寡兵であっために苦戦を強いられ、幕臣70名が討ち取られる被害を受けたが、三好側も多くの死傷者を出して後退した。また、今回の戦いで本願寺は参戦しなかったが、
三好軍は義輝と本願寺の同盟によって、背後を本願寺に突かれるかもしれないという不安もあったため、その動きが鈍った。
義輝はこうした三好軍の動きをみて、将軍山に城館を築き、長期の籠城戦を決めた。その後、夏が過ぎ、秋になっても膠着状態が続いたため、義輝と長慶は和睦を考えるようになった。11月に六角義賢が両者の仲介を務め、和睦を斡旋した。
12月3日、義輝は長慶との間に和睦が成立したことに伴って、将軍山から京へと向かい、
二条法華堂に入り、ここを御座所とした。これにより、5年ぶりの入洛が実現し、直接的な幕府政治を再開した。同月23日には、伯父の近衛稙家の娘(大陽院)を正室に迎えている。
永禄2年(1559年)7月8日、義輝は上京と下京の2つの町の中間点・勘解由小路烏丸に、新御所の建設を進めた。この御所は殿舎のみならず、堀などの防衛設備も整えられ、永禄3年(1560年)6月19日にここに移動した。
三好氏への厚遇
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義輝は三好長慶と和睦して帰京すると、三好一門を厚遇した。主だった者たちに対しては、栄典を次々に与えた。
まず、長慶は幕府の御相伴衆に加えられ、桐紋の使用を許されたほか、さらに修理大夫への任官を推挙された。また、嫡男・孫次郎が義輝から「義」の偏諱を拝領して、義長(後に義興に改名)と名乗り、同様に御相伴衆に加えられた。そのほか、三好実休や松永久秀なども御供衆に加えられるなど、一門・宿将も破格の待遇を受けた。
三好一門は義輝から将軍近侍の直臣や有力大名に授与される上位の栄典を得て、社会的な地位を大いに上昇させた。他方、それを知った諸国の大名らは羨望の眼差しを向けると同時に、分不相応だと批判もした。彼らもまた、他国の大名らと争う過程において、社会的地位を上昇させるために高い栄典を望んでいた。特に、「義」の一字拝に関しては公家からも批判があり、吉田兼右は「末世の故なり」(『兼右卿記』)と嘆いている。とはいえ、三好氏は将軍家との関係を旧主・細川氏よりも深め、畿内・四国を勢力圏とし、長慶のもとで最盛期を迎えた。
その一方、長慶をはじめ三好氏は義輝の臣下として、幕府機構に組み込まれることとなった。義輝が朽木にいた5年間は、三好氏が畿内に君臨し、この期間においては義輝に臣従しておらず、対等な立場にあったとも考えられる。だが、栄典が三好氏に授与されると同時に、三好氏は義輝を主君として認め、臣下の礼を取らざるをえなくなった。例えば、御供衆は単なる称号ではなく、将軍の外出の際にはその行列に付き従って「御供」する必要があり、三好氏がその臣下であるということ目に見える形で内外に明確化された。
無論、長慶も義輝の権威に自らが取り込まれる危険性や、長年対立してきた義輝との和解が難しいことは理解していた[105]。そのため、永禄3年1月に義長が三好氏代々の官途であった筑前守に任ぜられると、長慶は三好氏の家督と本拠地である摂津の芥川山城を義興に譲って、河内の飯盛山城に移っている。長慶自身は義輝との一定の距離を置きつつ、三好氏の新当主となった義興と義輝の間で新たな関係を構築することで、関係の安定化を図ったとみられている[105]。
将軍親政と三好氏との共闘
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永禄元年以降、義輝は帰京したのち、三好長慶ら三好氏を支柱とし、政治的立場を安定させた。義輝の治世は実質的にここから始まり、またそれを補佐したのは上野信孝と進士晴舎であった。また、義輝の生母・慶寿院やその兄弟の近衛稙家、大覚寺義俊、聖護院道増、久我晴通らが補佐した。
永禄3年5月、長慶は河内の畠山高政を征伐の対象とし、義輝の承認を求めた。高政が応戦の姿勢の見せたため、8月に長慶は伊勢貞孝に通して、義輝に紀伊の湯川直光に三好方に付くよう求める御内書の発給を求めた。直光は高政に近い立場にあったが、湯河氏は奉公衆として幕府に代々仕えていたため、長慶は義輝を利用して高政側の切り崩しを図った。
10月2日、長慶は細川晴元が香西氏らと法禅寺で挙兵したことを受けて、義輝に貞孝を通して、比叡山延暦寺と六角義賢に対して晴元を追い払うことを命じる御内書の発給を求めた。延暦寺や六角氏の対応は不明であるが、細川方が京の各所を放火しため、内藤宗勝が丹波より出陣し、これを破っている。
同月15日、三好実休が高政の援軍として駆け付けた紀伊の根来衆を打ち破り、畠山氏の敗北は決定的となった。同月24日に河内の飯盛山城が、27日に高屋城が開城し、高政は堺に退去した。
11月13日、長慶が飯盛山城に、実休が高屋城に入城し、河内と大和が平定されると、同月24日に義輝は長慶に飯盛山城入城を賞する御内書を発給した。
永禄4年(1561年)5月、長らく反三好の旗頭であった晴元が長慶との和睦に応じ、出家して摂津冨田の普門寺に入った。長慶は先手を打ち、晴元が六角氏らに利用されることを阻止した。
7月、畠山高政と六角義賢が結んで畿内で蜂起し、久米田で7か月にわたって対陣した。畠山氏・六角氏の蜂起は、畿内で伸長する三好の封じ込めの意図があったされる。このとき、同月23日に義輝は紀伊の湯川直光に対し、高政と義賢が出陣してきたので、長慶・義興父子に味方するように御内書を発給し、高政を牽制している。
永禄5年(1562年)3月、三好軍が畠山・六角軍と久米田で交戦して敗北し、実休が戦死した(久米田の戦い)。このとき、義輝は三好氏とともに京を去り、石清水八幡宮に入り、三好氏との連携を維持した。だが、伊勢貞孝はこのとき三好氏と反目していたため、六角軍が占拠した京に留まり続け、政所沙汰を公然と行った。
5月20日、三好軍が畠山軍を破り、京を奪い返したため、六角軍が京から撤兵した(教興寺の戦い)。六角に味方していた貞孝は京から坂本に逃げ、義輝は長慶を支持してこれを更迭した。貞孝が幕府法を無視した裁決を行っていたことが発覚したのも、更迭の理由とされる[116]。これに激怒した貞孝は兵を集めて反乱を起こしたが、三好勢によって入京を阻まれ、9月に近江杉坂で討たれた。
貞孝の死後、義輝は近臣の摂津晴門を新たな政所執事とし、伊勢氏の人物を任用しなかった。これによって、かつての3代将軍・足利義満の介入すら不可能だった伊勢氏による政所支配は歴史に幕を閉じ、幕府将軍による政所掌握への道を開いた。また、伊勢氏に独占されていた莫大な権益を自ら掌握することで、将軍としての地盤も強固なものにした。
諸大名らとの交流
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義輝は幕府権力と将軍権威の復活を目指し、諸国の戦国大名との修好に尽力し、紛争の調停なども行っている。
例えば、伊達晴宗と稙宗(天文17年(1548年))、里見義堯と北条氏康[119](天文19年(1550年))、武田晴信と長尾景虎(永禄元年(1558年))、島津貴久と大友義鎮、毛利元就と尼子晴久[120][121][122](永禄3年(1560年))、松平元康と今川氏真[123][124](永禄4年(1561年))、毛利元就と大友宗麟[125] (永禄6年(1563年))、上杉輝虎(長尾景虎改め)と北条氏政と武田晴信(永禄7年(1564年))など、大名同士の抗争の調停を頻繁に行った。
また、義輝は諸大名への懐柔策として、大友義鎮を筑前・豊前守護、毛利隆元を安芸守護に任じ、さらに自らの名の偏諱(1字)を幕臣や全国の諸大名などに与えた。例えば、「藤」の字を細川藤孝(幽斎)や筒井藤勝(順慶)、足利一門の足利藤氏・藤政などに、「輝」の字を上杉輝虎(謙信)・毛利輝元・伊達輝宗などの諸大名や足利一門、藤氏・藤政の弟である足利輝氏などに与えた。また、朝倉義景、島津義久、武田義信などのように、足利将軍家の通字である「義」を偏諱として与える例もあった。
また、上杉輝虎の関東管領就任の許可をはじめ、御相伴衆を拡充し、毛利元就、毛利隆元、大友義鎮、斎藤義龍、今川氏真、武田信虎といった諸大名も任じた。
永禄2年2月、尾張の織田信長が上洛したのをはじめ 、4月に美濃の斎藤義龍が、5月には越後の長尾景虎(上杉謙信)が相次いで上洛し、義輝に謁見した。
同年、大友義鎮を九州探題に任命し、九州の統治を委ねた。もともと、九州探題は足利氏一族の渋川氏が世襲していたが、少弐氏と大内氏の抗争に巻き込まれてすでに断絶していたため、これを補うための補任であった。大友家は九州において、足利将軍家に最も親しい有力守護大名である(この時、大友義鎮は豊後・豊前・筑後・筑前・肥後・肥前の守護および日向の半国守護を兼ねていた)。
また、この年に伊達晴宗を奥州探題に任命している。もともと、奥州探題は足利氏一族である斯波氏の庶流である大崎氏が世襲していたが、伊達氏の軍事的圧力によってすでにその支配下に置かれていたため、その現状に対応するための補任であった。ただし、これはあくまでも手続上の話で、実際には弘治元年(1555年)には既に晴宗を探題として遇していたとされている[128]。
永禄年間には、信濃国北部を巡る甲斐国の武田信玄と越後国の長尾景虎との川中島の戦いが起きており、義輝は両者の争いを調停し、永禄元年には信玄を信濃守護に補任した。だが、信玄はさらに景虎の信濃撤退を求めたため、義輝は景虎の信濃出兵を認めた。
永禄4年、信玄に駆逐され上方へ亡命していた前信濃守護・小笠原長時の帰国支援を、長尾景虎に命じている。
三好氏との確執
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義輝は帰京して以降、三好長慶ら三好氏の傀儡になることなく独自に政治決裁を行い、その政治的地位を固めていった。また、諸大名の争いに介入し、大名らに一定の影響力があることを示し、その存在感を示した。
他方、将軍に忠誠心を見せる大名が現れたことは、三好氏にとって脅威であり、警戒心を高めさせた。特に長尾景虎が永禄2年5月に上洛した際、「在京して守護する」とまで言ったため、三好氏は景虎を早々に帰京させようとしたほどであった。義輝が直接的軍事力を有していないとはいえ、三好氏の頭越しに諸国の大名と連携する事態は避けねばならなかった。
永禄7年(1564年)3月、長慶はこの年の干支が甲子であったため、朝廷に改元を申請した。長慶は将軍と同様に改元を執り行うことで、将軍を凌ぐ自身の力を誇示しようとしたと考えられる。だが、朝廷はこれに返答せず、その後も公武間で改元の話が出ていないこととから、三好氏の申し出を拒否したと考えられている。朝廷が長慶に応じてこの改元を行ったならば、義輝を無視して改元を行うことになり、義輝と三好氏の関係悪化を避けるため、義輝に配慮してこの申し出を拒否する形を取った。明治時代に至るまで、甲子の年で改元が行われなかったのはこの年のみであり、朝廷は本来は行うべき改元を見送ってまでこの政治判断を下した。このように、長慶の晩年にはその力に陰りが見えるようになった。
そのうえ、永禄年間に三好氏の側に「凶事」が続いたことも、三好氏の不安を増大させた。まず、永禄3年3月に長慶の三弟・十河一存が死去し、同5年3月には長弟・三好実休が戦死、さらに同6年8月には長慶の嫡子・義興が病没した。さらに、永禄7年6月に長慶は次弟・安宅冬康を逆心の疑いで誅殺したが、その死後に激しい後悔に襲われ、自身の病を悪化させた。
同年7月4日、三好氏の惣領たる長慶が病死した。長慶の死後、三好氏は長慶の甥で十河一存の息子・三好重存(のち義継に改名)が新たな惣領となり、三好三人衆や松永久秀、その長男・松永久通が補佐にあたった。だが、長慶をはじめとする三好氏の主要人物が死んだことにより、三好氏の権威低下は決定的なものとなり、衰運に陥った。一方、義輝の権威はこれを機に上昇し、幕府権力の復活に向けて、さらなる政治活動を行なおうとした。
同年12月以降、義輝は三管領の斯波氏の屋敷・武衛陣跡に、新たな屋敷の建築を開始した。この屋敷は京の二条に存在したことから、二条御所と呼ばれている。
しかし、傀儡としての将軍を擁立しようとする三好氏にとっては、将軍としての直接統治に固執する義輝は邪魔な存在であった。三好三人衆らは阿波の足利義維と組み、義維の嫡男・義栄(義輝の従兄弟)を新将軍にと朝廷に掛け合うが、朝廷は耳を貸さなかった。一方で、義輝が頼みとする近江の六角氏は永禄6年8月の観音寺騒動以降、領国を離れられなくなっていた。
永禄8年(1565年)4月30日、三好重存が上洛し、5月1日に義輝に謁見した。その際、義輝は重存に「義」の偏諱と左京大夫の官位を与え、重存は義重と名乗った。
その後、5月18日までは京では平穏な状況が続いた。公家の山科言継や勧修寺晴右の日記などを見ても、ただ事実が淡々と記載されているのみである。他方、宣教師ルイス・フロイスの『日本史』では、同日に義輝が危険を感じて二条御所を出たものの、近臣らに説得されて戻った、と記されている[141]。
5月19日、義重は三好三人衆や久通とともに、清水寺参詣を名目に集めた約1万の軍勢を率い、突如として二条御所に押し寄せ、将軍に訴訟(要求)ありと訴え、取次ぎを求めて御所に侵入した(永禄の変)。
二条御所の完成間近を狙った攻撃であり、
開戦は午前8時頃であったという。
義輝は三好軍が二条御所に侵入したのち、劣勢であることを悟り、死を覚悟した。そして、近臣らに酒を与えて、最後の酒宴を行い、皆で別れの酒を酌み交わした。この際、三好氏との取次であった進士晴舎が敵の侵入を許したことを詫びて、義輝の御前で自害した。
その後、義輝と近臣は三好軍に立ち向かい、突撃して切り込んだ。やがて、近臣たちは皆討ち死にし、午後11時頃に義輝もついに力尽き、三好の兵に討たれた。享年30(満29歳没)。
義輝の最期に関しては諸説ある。フロイスの『日本史』では、義輝は自ら薙刀を振るい、その後は刀を抜いて抵抗したが、敵の槍刀で傷ついて地面に伏せられたところを一斉に襲い掛られて殺害された、と記されている[141]。『足利季世記』では、奮戦する義輝は三好の兵を寄せ付けず、最期は槍で足を払われて倒れたところを、寄せ手の兵たちに四方から障子を覆い被せられ、その上から刺し殺された、と記されている。事件の際に在京していた山科言継の『言継卿記』には、義輝が「生害」したと記されており、討死したとも自害したともとることができる[148]。後世には、松永貞徳の『戴恩記』などの御所を囲まれて切腹したというものや、『常山紀談』の「散々に防ぎ戦ひて終に自害有ける」などの自害したという明確な記述も見られるようになる。
この時、義輝とともに多くの幕臣が討死・自害にしたが、三好軍は義輝の生母である慶寿院も自害に追いやり、側室の小侍従局も殺害している。殺戮が終わると、三好軍は二条御所に火をかけ、多くの殿舎が炎に包まれたという。
義輝の死後、三好氏による主君殺害は世間を憤慨させた。特に義輝と親しくしていた大名らは激しく憤り、上杉輝虎は「三好・松永の首を悉く刎ねるべし」と神仏に誓ったほどであった。また、河内の畠山氏の重臣・安見宗房も「前代未聞で是非も無いこと。(略)無念の至りだ」と怒りをあらわにし、上杉氏の重臣らに弔い合戦を持ちかけている。朝倉義景の重臣らも同様に、「誠に恣の行為で、前代未聞、是非なき次第で沙汰の限りだ」と怒りをあらわにしている。
朝廷は義輝の死に悼惜し、6月7日に義輝に従一位・左大臣を追贈したばかりか、正親町天皇も政務を3日間停止して弔意を示した。公家の山科言継は義輝の殺害を、「言葉がない。前代未聞の儀なり」と日記に記している。また、天皇に仕えていた女官も同様に、「言葉もないことだ」と嘆き悲しんでいる。朝廷もまた、三好・松永の義輝殺害に強い怒りを感じていた。
義輝殺害に対する怒りは、支配層ばかりではなく、一般庶民にも広まっていた。永禄10年(1567年)2月10日には、上京の真如堂で義輝追善の六斎踊が挙行され、京の内外はもとより、摂津や近江からも貴賤を問わず多くの男女が集まり、2,800人が鉦鼓を鳴らし、総勢7、8万人の群衆が義輝の死を悼んだ(『言継卿記』2月10日条)[152]。また、同年10月7日にも真如堂で安芸から来た600人が義輝の奉公衆や女房衆に扮し、行列を組んで風流踊を行っている(『言継卿記』10月7日条)。今谷明は、「町の人々が義輝を追悼する踊りによって三好三人衆政権への抵抗を示した」と解釈している[152]。 山田康弘はこれらの事実から、「三好は世間を敵に回した」と評している。
天正17年(1589年)5月18日、毛利輝元が非命に斃れた義輝の25周忌に際して、鹿苑院塔主・西笑承兌にその仏事を依頼した。これは、「鹿苑院塔主が導師を勤めれば、昌山(足利義昭のこと)も喜ばれるだろう」と考えた輝元の配慮でもあった。