「アウグストゥス」はラテン語で「尊厳ある者」を意味しており、欧米諸国において「8月」(英語: August)の語源になっている。アウグストゥスの当初の名前はオクタウィウス (Octavius) であるが彼は成長とともに幾度か名前を変えており[注釈 1]、混乱を避けるために後代の歴史家は彼をオクタウィアヌス (Octavianus) と呼んだ。オクタウィアヌスとは「オクタウィウスだった者」という意味であって、これはオクタウィウスがカエサルの死亡後自身をカエサルと自称し始め、元老院はそこからオクタウィアヌスの名前を用い始めたとも言われている。その為オクタウィウス自身がオクタウィアヌスの名を用いたことはない。
以下の記述ではアウグストゥスを名乗るまでの期間の名称をオクタウィアヌスで統一する。
ガイウス・ユリウス・カエサル騎士階級に属するガイウス・オクタウィウス(英語版)とアティア(カエサルの姪)との間に生まれる。出生時の名はガイウス・オクタウィウス(Gaius Octavius)で、すぐにトゥリヌス(Thurinus)というあだ名がついた。しかしマルクス・アントニウスは彼を解放奴隷の子孫とし、大人になった彼を幼少期のこの名で呼びつけたという[3]。姉には小オクタウィアがいた。
幼少の頃はウェレトラエ(現ヴェッレトリ)の祖父のもとで過ごす。紀元前58年、父と死別する。その後、母アティアはルキウス・マルキウス・ピリップスと結婚、この時オクタウィアヌスは新夫妻の元へ引き取られて実子とともに可愛られたという。
カエサルの親族
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オクタウィアヌスが最初に歴史の表舞台に登場したのは11歳の時であり、祖母ユリア(英語版)が亡くなった際にフォロ・ロマーノで追悼演説を行い、さらに紀元前47年には重要な宗教職である神祇官 (Pontiff) に任命されている。
大叔父であるカエサルが小カトーらポンペイウス派残党を掃討するためにアフリカへ向かうと同行を望んだが、母アティアの反対により断念したとされる。カエサルがタプソスの戦いに勝利してアフリカのポンペイウス派残党を壊滅させた際、小カトーに仕えていたオクタウィアヌスの友人マルクス・ウィプサニウス・アグリッパの兄が捕虜となり、オクタウィアヌスはアフリカから帰還したカエサルにアグリッパの兄の釈放を嘆願して認められ、さらに凱旋式への参列も許された[4]。
紀元前46年にカエサルがヒスパニアのポンペイウス派残党の討伐に向かった際に同行を許され、病で出遅れたものの敵中を突破してカエサルの陣営に辿り着いた事で称賛を得ているが、後に政敵からこの時カエサルの部下だったアウルス・ヒルティウスに38万セステルティウスで身をひさいだと中傷されている[5]。
紀元前44年3月15日にカエサルがマルクス・ユニウス・ブルトゥス、ガイウス・カッシウス・ロンギヌスらに暗殺(英語版)された時、オクタウィアヌスは予定されていたパルティア遠征に備えてアポロニアで弁論と軍務の修練に励んでいたが、急遽ローマへ帰還する。その途中、ギリシアからほど遠くない南部イタリア、ブルンディシウム近郊のリピアエでカエサルが自身を養子に指名し、自身の名と財産の相続人としていたことを知った。アティアらの親族は相続に反対したが、友人達の性急な武力行使の主張を抑えつつ、ローマの動静を探るためカエサルの政治的右腕だったルキウス・コルネリウス・バルブスらの遺将や元老院の重鎮だったマルクス・トゥッリウス・キケロらと接触を重ね、この時オクタウィアヌスはキケロに尊敬の念を示して好印象を与えたとされる。
カエサルの遺将達の反応に手応えを感じた事で5月7日にローマでカエサルの後継者としてしてその名前を継承する事を宣言し、こうしてオクタウィアヌスは弱冠18歳でアグリッパやクイントゥス・サルウィディエヌス・ルフス(英語版)らの同志達と共にローマにおける権力闘争に身を投じる事となった。
その時、彗星は11時頃に現れて大地からでも曇りなく見えた。彗星を見た群衆はカエサルの霊魂が不滅の神々によって迎えられた事を確信し、その名故に、折しもローマ市民達がフォルムにおいて聖なる存在としたその像の頭部に彗星が置かれたのだった。
―大プリニウス『博物誌』2.94
この時ローマの勢力図はカエサルの部下で執政官として権力を握っていたマルクス・アントニウスと、ブルトゥスら暗殺者達に同調するキケロら共和派によって二分されていた。
ローマに入ったばかりのオクタウィアヌスは脆弱な立場にあり、キケロは「名前以外に何も持たない若者」[9]と評し、カエサルの遺言も権力基盤の継承には不十分だったため[注釈 2]、アントニウスにも遺贈金の引き渡しを拒否された。そのためオクタウィアヌスは唯一の武器である「カエサル」の名を最大限に利用し、7月20日に開催されたカエサルの戦勝とカエサル家の氏神ウェヌス・ゲネトリクスを讃える祭事を取り仕切って存在感を示した。また、この時偶