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江戸城 - Wikipedia

江戸城どじょう武蔵豊嶋江戸現在東京千代田千代田あっ日本ある現在皇居なっいる[3]

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江戸城
東京
Edo P detail.jpg
別名 千代田
城郭構造 輪郭平城または平山
天守構造 1606新築天守解体現存
 連立55地下1[1]
1621再築天守解体現存
 独立55地下1
1635再築天守焼失現存
 独立55地下1
城主 太田道灌
築城 1457長禄元年
改修 徳川家康秀忠家光
城主 太田1457-1486年1561-1577年[2]
扇谷上杉1486-1524年[2]
北条1524-1561年1577-1590年[2]
徳川1590-1868年
遺構 現存石垣
指定文化財 重要文化財桜田門田安清水
特別史跡
建造 富士見伏見多聞
桜田大手門
位置

北緯35度41分17.97 1394515.72 / 北緯35.6883250 東経139.7543667 / 35.6883250; 139.7543667

地図
江戸城の位置(東京都内)
江戸城
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こうじょうおよび千代田ちよょう別名として知らいる江戸時代広く一般用いられあっいう

概要編集

江戸城1457台地東端扇谷上杉家臣太田道灌築い平山ある1590徳川家康江戸城入城徳川居城なり江戸幕府開幕する規模拡張工事特に慶長およそ10集中行わまたその後2ほど拡張工事行わ周囲4[4] 日本最大面積城郭なっ[5]およそ260にわたり幕府政庁15およぶ徳川将軍およびその家臣政務行う場所なっ将軍江戸城住み将軍家族女性住む大奥設けられ将軍補佐老中その若年寄など月番つまり替わりそれぞれ担当江戸城周辺屋敷から日々登城出勤[6]江戸城出勤する呼ばれる人々老中若年寄以外目付奉行小姓等々また江戸城呼ばれる警護警備仕事する人々必要3分3交代勤務それら合算する江戸城ほど男性常駐推算さらに大奥ほど婦女子推算れるので時間により出入り増減あるせよほど江戸城推算れる[出典]

江戸時代1868慶応4) 3政府東征迫る幕臣勝海東征参謀西郷隆盛会談により江戸城攻撃中止いわれる[7][8][9]江戸城開城により徳川江戸城から退出代わり東征総督有栖川宮熾仁親王入城鎮守置い[2]から明治天皇江戸行幸居所皇居なり短期間東京改名[10]その後皇居宮城きゅうじょうとして使わいる以後吹上庭園御所江戸城西ノ丸宮殿敷地なっいるその東側ある江戸城中心あっ天守閣本丸二ノ三ノ丸一帯皇居御苑として開放いる南東皇居外苑北側北の丸公園常時開放それら外側一般利用できる土地なっいる

特別史跡指定いる

歴史編集

築城まで編集

江戸東京最初根拠地置い武家江戸ある平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて江戸居館本丸二ノ辺り台地置かれる

ただし歴史学者山田邦明江戸城あっ地域古代荏原桜田一部豊島江戸地域あっため江戸根拠置い江戸居館江戸城存在することありないとして江戸居館当時江戸中心あっ平川日本橋前身流域あっする山田所在地現在水道橋付近推定する[11][12]

築城編集

15世紀関東騒乱江戸没落のち扇谷上杉上杉持朝家臣ある太田道灌に際して康正31457江戸城築城江戸幕府公文書ある徳川実紀これ江戸城はじめれる

道灌当時江戸城について正宗戸城并江万里梅花無尽蔵によってある程度まで推測できるそれよれ中城外城三重構造なっおり周囲切岸水堀巡らせ結んれる本丸漢語表現れる戸城并江よれ道灌本丸呼ばれる居宅設け背後築いいう梅花無尽蔵江戸城北側菅原道真祀ら梅林あっこと記さいる[ 1]

太田道灌時代面影残すれる下道灌濠

道灌上杉定正殺害江戸城上杉所有するところ江戸城なり上杉朝良隠居として用いついで41524扇谷上杉破っ北条北条氏綱支配入る江戸城品川あり更にその六浦金沢鎌倉至る水陸交通あっいることから関東内陸から利根川元荒川隅田川当時入間川下流品川鎌倉更に外洋向かうため交通掌握ため重要役割果たし考えられいる

天正181590豊臣秀吉小田原攻め小田原征伐開城秀吉によって北条旧領与えられ徳川家康同年8朔日1590830駿府静岡から江戸入っ[ 2]一般言われるそこ道灌による築城から荒れ果て江戸城あり100ばかり大手寄りあっれる低地ありなら10足らずしかも海水さしこむ茅原あっ西南台地ススキ野原どこまで続き武蔵野つらなっ日比谷入り江沖合点々砂州あらわれという[ 3]

江戸時代編集

江戸城登城風景屏風国立歴史民俗博物館所蔵1847
富士見周辺18851890ころ撮影
天下普請
家康入城当初江戸城道灌築城小規模ありかつ築城からおり荒廃進んためそれまで本丸二ノ加え西三ノ丸吹上増築また平川江戸前島中央外濠移設それ伴う残土により現在西の丸半分以上埋め立て行い同時に造り行っいるただし当初豊臣政権大名として徳川本拠として改築あり関ヶ原戦いによる家康政権掌握以前以後その意味合い異なっ考えられいる
慶長天下普請
などあっ
  • 慶長121607関東奥羽信越大名命じ天守およびなど修築このときまた設計行い関東大名5分れ80寄せ20天守石垣築き奥羽信越伊達上杉景勝蒲生秀行佐竹義宣秀治溝口秀勝村上義明など普請行っこの慶長天守完成
  • 慶長161611西ノ丸石垣工事東国大名将軍徳川秀忠しばしばこれ巡視
  • 慶長191614石壁修築行いからにかけて工事進め102113家康大坂触れ出し江戸留守居除く大名このから参加余儀なく大名著しく疲弊このため翌年大坂終結家康3年間天下普請止めるよう指示
元和天下普請
  • 元和41618紅葉山東照宮造営また神田開削行う
  • 元和61620東国大名桜田門から清水まで石垣枡形修築行わせる
  • 元和81622本丸拡張工事行ないそれ併せ天守御殿修築同年元和天守完成するまた寛永元年1624隠居として西殿舎改造行なわ
寛永天下普請
  • 寛永51628から翌年にかけて本丸西丸工事西外濠平河石垣工事また各所城門工事行われる
  • 寛永121635二ノ拡張工事行なわ
  • 寛永131636石垣担当662大名担当758大名合計120による飯田橋から四谷赤坂溜池まで掘り抜き石垣城門築く外郭修築工事行なわれる寛永141637天守御殿修築翌年寛永天守完成する

最後31660より神田御茶ノ水拡幅工事行なわ一連天下普請終了する

徳川江戸城築城においてづくり含め伊豆石材(伊豆)欠かないものあっ壮大石垣石材ほとんどすべて相模西部から伊豆半島沿岸火山地帯調達海上船舶輸送築いものある[15]

本丸二ノ三ノ丸加え西西吹上周囲16kmおよぶ区画本城現在千代田新宿一部残る外堀駿河台掘削造っ神田構えする城郭発展その地積本丸105000町歩西81000町歩吹上御苑103000町歩周囲40外濠周囲73なり城上205天守設け

以後200以上にわたり江戸城江戸幕府中枢として機能

現代編集

縄張編集

本丸西独立いる一城形式ある武蔵野台東端ある地形活用おり特に山の手谷戸穿っので曲面多い構造いる下町埋立ので直線区画水路街並み見ることできる

石垣多く見ることできるこれら天下普請はるばる伊豆半島から切り出さ送らものある[ 4]それまで関東同じくのみあっ関東石垣多用近世城郭江戸城小田原しかないそれでも外郭西吹上など用いられいる特に吹上雄大ある

江戸城構え
21849配置
1)本丸大奥 2) 中奥 3) 4)御殿 5) 6)紅葉山 7)西 8)吹上 9) 10)11)三ノ丸 12)西 13)大手 14)大名小路

内郭編集

本丸
本丸御殿擁する江戸城並びに徳川江戸幕府中心関東入国3あっ間にあっ空堀埋め拡張その後本丸御殿拡張ため元和改修2あっ出丸1大火残るもう1出丸二ノ間にあっ東照宮規模更に拡張いる寛永残存出丸的場として鉄砲調練行なわ江戸屏風二ノある白鳥嘗て両者大きく隔て拡張伴いその面積大きく縮小いる
二ノ
庭園
入国屋敷本丸曲輪存在あっ慶長中之置かまた寛永拡張二ノ御殿造られる内部石垣複数区画なさおり下乗から本丸向かう中之二ノ御殿向かう西方面寺沢通る必要あっ大正時代二ノ三ノ丸間にあっ埋め立てられいる
三ノ丸
入国外郭日比谷入江接し平川見立て堤防兼ね入用いくつ木戸設けられ
以後屋敷二ノ拡張煽り受け敷地大幅減少結果内郭組み込ま小さな御殿勘定以外空地なり登城大名家臣控えなるまたこの大手二ノから三ノ丸移転いる
西
聞書夜話参考落穂などよれ天正年間徳川家康入城このあり田圃ありなれツツジなど咲き遊覧あっいう
1592元年から翌年にかけて西創建創建当時新城隠居隠居などいっ西大手内側西ノ丸特に的場曲輪呼ばいる西山里あり徳川家光小堀政一命じ園池茶室造ら山里呼んその西山里馬場あり坂下あるかつて通行許さこの通り紅葉山下半蔵門至っ
紅葉山
本丸西丸ある高地江戸城最も高い場所かつて日枝神社祭らおり開幕庶民抜け参拝することでき拡張取り込まため移転いるその後東照宮将軍霊廟造営また具足鉄砲屏風あっまた西の丸閣図紅葉山文庫神官国学鈴鹿献上蔵書収め書物あり1873火災焼失太政官正院文書復旧命じいる[ 5]
吹上
西
入国ほぼ日比谷入江あっ場所繋がっ荷揚げ人寄天海屋敷本多忠勝里見屋敷あっ継続埋め立て行わから切り離さ以降連なる譜代大名屋敷なる[ 6]初期接する一帯和田という置かなくなっ以降和田後世残っまた西側東側馬場あり隣接する馬場先呼ばこの寛文81668まで不明あっ

外郭編集

大手大名小路
開幕町人混在いる居住あっ開幕大名敷地なる大名屋敷手前一ツ橋屋敷舂屋つき精米小普請屋敷北町奉行大名小路評定南町奉行あっ

建築編集

江戸城配置内郭
江戸城配置外郭

天守編集

太田道灌築城以降象徴建物という多重御殿建築3とも江戸時代佐倉として移築明治維新解体佐倉2屋根方形屋根ようなっ

徳川家康改築以降本丸天守慶長1607元和1623寛永16383築かいるどの天守破風飾り飾っ[ 7]

31657大火によって寛永天守焼失直ちに再建計画現在残る御影石天守加賀藩主前田綱紀によって築か6縮小計画作成重鎮あっ保科正之天守織田信長岐阜築い始まりあっ守り必要ないという意見により江戸市街復興優先する方針なっ中止[ 8]のち新井白石によって再建計画図面模型作成行わこれ実現なかっ以後本丸富士見実質天守 これ以降再建含め天守建造控えるようなり事実天守あっ称するなど遠慮姿勢示すようなる

慶長天守
天守白い御影石用いられ慶長見聞1606慶長11まず自然6切石28天守黒田長政によって築か慶長12自然切石自然2追加1020四方なる当代位置現在本丸中央西寄あり天守その北面接する天守本丸西石垣西側つなぐよう天守あっ慶長江戸絵図[ 9]ただし当時本丸現在南側3分の2程度あっため当時地勢北西あることなる
天守同年竣工1平面規模718×16最上階75×55225瓦葺慶長見聞もしくは7毛利実録考証9日本西ある[ 10]
慶長天守復元中井指図宮上考証よる天守駿府同じく20四方8自然による広い石垣それより回り小さい天守地階なる2切石による石垣載っいる2構造55地階1含める6いる駿府など異なり自然切石狭いので多聞など囲わはおら天守周りだけあっ思われる高欄なくまた最上階のみ6なっいる漆喰48メートル天守含めれ国会議事堂中央65.45メートル匹敵作事大工中井いる
一方内藤中井指図元和天守ものおり慶長天守57腰羽目高欄後期望楼あっいる作事大工三河譜代大工木原吉次中井協力する
城郭研究西恭弘天守構造宮上同じある天守後期望楼する大竹正芳宮上別に紹介いるまた三浦正幸門下金澤20四方天守基底として自然切石一体天守そこから直接建つ名古屋天守後期望楼天守考証いるその後三浦正幸津軽慶長いる[ 11]
内藤以外石垣屋根到るまでずくめ天守あり慶長見聞岩渕夜話富士山雪山なぞらえいるこの天守秀忠によって解体新た造り直さいる造り直し動機御殿拡張必要なっ結果宮上この初代天守縮小坂城移築いる
元和天守
元和天守1622元和8から翌年にかけて天守普請その上屋天守作事行わ位置本丸東北梅林あっ徳川忠長屋敷その跡地建て当家紀年もしくは寛永天守同じ位置れる加藤忠広浅野長晟による天守規模慶長3分の1寛永天守同様南側天守あり自得7縮小いる天守内部東照宮あっいる[ 12]
天守構造55地階1含める6天守含め30れる外観構造について諸説ある
宮上
宮上津軽江戸御殿絵図津軽比定屋根瓦葺漆喰いる寛永天守違い破風張り出し設けられいる特徴これ作事当たっ譜代鈴木長次木原いる三河大工られる意匠いる
内藤
前述通り中井指図比定一部破風異なる以外寛永天守ほぼ変わらない三浦漆喰瓦葺ない以外内藤同様見解採っいる
西恭弘
西豊島江戸より2あっいるまた黒色でもあっいる
元和天守秀忠死後によって解体造り直さいるこの動機秀忠家光親子関係起因するいわれる詳らかなくほか仙台下賜高層建築による漆喰早期剥離に対する是正工事といったある
寛永天守
寛永天守1636寛永13から翌年にかけて天守天守双方完成いる黒田忠之浅野築い天守位置本丸北西桔橋規模元和踏襲いるまた元和縦横位置変えとある黒田材質伊豆天守設けられいる天守建てられないこれ階段踊り場よう意味造らからある基本構造現在天守ほぼ同じある大坂同じよう東側登り以外西側橋台接続するかたち出入口設けられ
構造55地階含めれ6独立壁面黒色なるよう塗料もしくは表面加工施さ銅板張り屋根瓦葺ある元和同じ本丸地上から天守含む30下総から眺望できいう作事大工甲良宗広
16573大火発生閉じられいるべき過失開かため城下町から飛び火天守全焼しまっ焼失寛永同様天守再建する計画あっそれ簡単立ち消えるものなかっことから提出多く資料大切保管続ける運びなっこれ幸い確定図面現代まで遺されることなっこのよう事情により正確姿判明いる
  • 規模 7桁行梁間京間
    • 地階12×10
    • 18×16 桁行2929×梁間2719191
    • 15×13 桁行161×梁間24155一重よりまで通し柱13
    • 三重12×10 桁行1325×梁間1115127三重よりまで通し柱32
    • 10×8 桁行105×梁間8475よりまで通し柱9
    • 8×6 桁行84×梁間6355

図面による復元計算よる天守58.63メートルなっ[17]

御殿編集

本丸二ノ御殿模型江戸東京博物館一部建物省略幕末御殿復元おり実存ない天守模型再現いる
1)玄関2)大広間3)廊下4)白書5)廊下6)書院7)御座8)休息9)小座敷10)中之口御門玄関11)台所12)廊下13)廊下14)小座敷大奥15)対面16)御座大奥17)御殿18)座敷客座敷19)台所大奥20)21)広敷御門22)御殿

御殿本丸二ノ西三ノ丸御殿あるこの三ノ丸御殿年間廃絶本丸御殿将軍居住政務儀礼として江戸城中心役割持ち二ノ御殿将軍別邸隠居将軍側室晩年過ごす場所として西御殿隠居将軍世継御殿として用い

本丸御殿編集

本丸御殿中奥大奥からこの存在する将軍謁見役人執務中奥将軍生活空間ある政務ここ行っ大奥将軍夫人女中生活する空間ある大奥中奥遮ら廊下のみ行き来でき

将軍御殿として最初本丸御殿1606慶長11完成その後1622元和81637寛永1416焼失17大火焼失165921844天保15焼失[18]184521859安政6焼失1860万延元年1863文久3焼失再建焼失繰り返し文久焼失以降本丸御殿再建機能西御殿移し

中奥
主要御殿として西側大広間白書書院御座休息雁行ながらから配置東側詰所控室中奥東側配下詰所控室台所などある大老老中若年寄執務議事当初御座間にあっ堀田正俊刺殺事件により中奥用部屋設けられ彼ら将軍仲介ある側用人又は御用取次中奥中央詰所あっ
儀礼空間あり御殿改変少ない中奥将軍好み応じ頻繁改造中奥大奥異なり構造断絶ない時計書院のみ出入できしかし役人中奥御座将軍お目見え以外立ち入ること出来奥向役人時計会話交わし
大広間
本丸殿中最高格式最大規模有する御殿東西方向50メートル500及ぶ広大建物寛永17大広間屋根あっ焼失再建中央中庭設けられ屋根低く
大広間将軍宣下武家法度発布年始最も重要公式行事用いられ部屋上段中段下段二之三之あり西北から時計回り配置南東中門御駕籠あり大広間権威象徴するまた南面向かい側舞台あり大きな祝い事ある催しそのとして町人南庭見ること許し[19]
白書
大広間次ぐ格式有する御殿大広間廊下繋がり上段下段連歌部屋として300持つにおける将軍応接として公式行事用いられ家督隠居婚姻許可御礼大名ここ将軍面会年始越前松平加賀前田ここ対面また勅使使迎える下段宴席
書院
白書廊下繋がり部屋として上段下段西湖囲炉裏あり190持つ御殿に対し赤松ある将軍日常生活における応接として用い
御座休息
これら将軍居住空間として前者上段下段二之三之構成れる中奥応接政務執る後者上段下段のみ寝室居間として用い中奥役人原則として出入り禁じられ将軍目見するのみ御座入ることでき当初将軍御座寝室として休息更にプライベート空間として小座敷造ら
休息将軍代替わり建て替え行わ小座敷周辺改造多い例えば好ん徳川綱吉時分休息舞台ありまた当時頻発地震対策として地震なる避難場所中庭ヶ所設置徳川吉宗華美休息壊し一時期廊下一部区画そこ寝起き
大奥

二ノ御殿編集

1636寛永13最初建てられ御殿小堀によるもの機能省略極めて遊興高いものあっ南西ある築山背後有し白鳥繋がる舞台舞台あり対岸ある御座突き出殿から観覧することでき中央御殿あり東側築山中島ある御茶屋学問文庫あっ

しかしこの御殿5早く取り壊さ1643寛永20本丸御殿簡略御殿完成するこの御殿大火焼失越谷別殿移築いるこの1704宝永元年176010工事再建行なわ1867慶応3焼失その歴史終えることなる

西御殿編集

本丸御殿同じく中奥大奥しきらおも部屋あげれ殿上大広間廊下白木書院連歌山吹菊間芙蓉中間桔梗躑躅梅竹蘇鉄などある

御殿など1634寛永11185251863文久3にわたって焼失1868明治元年4朝廷明け渡さ当時殿舎それまで踏襲慶安御殿仕様大幅簡略御殿あり4度目建築あっ

明治天皇入城天皇住まいなり1869オーストリアハンガリー帝国使節迎え天皇謁見として利用当時使節詳細見取り図作成本国伝えいる1873明治655焼失[20]守備西丸小姓行っその後1888明治21明治宮殿建設

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三重6104多門26[ 13]

江戸城幾度渡る火災によって焼失現存する伏見富士見など大正関東大震災損壊解体復元ものあるため構造など考察するにあたって明治初頭撮影写真絵図指図文献など用いられいる

幕末まで現存二之蓮池三重蓮池明治初年接続する箪笥多聞火災延焼焼失

江戸城櫓門含め漆喰寛永天守除く足利二つ現す2長押施し破風銅板青海模様張っ出張設け落としいるもの多いこれら特徴一部幕府関与二条城小田原など城郭施さ

平面6×77×8標準規模として大坂名古屋同様用い1871明治4記さ図説平面規模最小4四方書院最大8×9三重6×7から8×7もの記さいる[21]

多聞嘗て本丸二ノ殆ど囲っ時代経るごと本丸西置き換わっいっ

一覧編集

太線幕末まで現存この現存する富士見伏見斜線1863文久3焼失またここ記載いる一時期全て存在ない

本丸南端より時計回り以下同じ
富士見 書院 書院台所汐見不明元和工事汐見太鼓梅林三重西側数寄屋嘗て三重
二ノ
蓮池蓮池三重寺沢嘗て三重人組松倉嘗て不明二ノ拡張
三ノ丸
不明
西
伏見太鼓
西
日比谷和田

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外郭25内郭11城内87[ 14]

虎口ある高麗櫓門構成れる大坂名古屋枡形櫓門多聞囲ん型式江戸城少なく完全下乗不完全もの桔橋あるだけある

櫓門桁行15から20梁間4から5ほどもの建てられ最大桁行25赤坂芝口見附新橋ものあっ91724以降24×5下乗もの最大なっちなみに最小規模4×2山下ある[21]

  • 大手門
    • 三ノ丸大手三ノ丸中央枡形虎口桁行22×梁間42櫓門高麗構成手前繋い三ノ丸屋敷あっ下乗大手あり現在大手大橋呼ば江戸時代勅使参向将軍出入り諸侯登城などこのから行う正式あっまたここ警備厳重きわめ10以上譜代諸侯その守衛10うち番頭11つねに肩衣羽織ひかえ鉄砲2010長柄2022そなえ警戒あたっ
    • 西大手手前橋場建てられ高麗その後方桁行18×梁間4櫓門構成現在皇居正門高麗現存ない

一覧編集

本丸
書院玄関前門中之新門汐見上梅桔橋西桔橋柚木
二ノ
下乗梅林二ノ喰違蓮池寺沢
三ノ丸
大手門桔梗平河不浄三ノ丸喰違
西
坂下西丸大手門西丸中仕切西丸書院前門西丸玄関前門二重西丸裏門大田山里吹上紅葉山下
曲輪
竹橋和田馬場先日比谷桜田門半蔵門田安清水雉子橋一ツ橋神田橋常盤橋呉服橋鍛冶数寄屋橋
曲輪
山下芝口見附幸橋虎ノ門赤坂喰違見附四谷市ヶ谷牛込小石川筋違橋浅草橋大手門

番所編集

江戸城警備要員詰所として多く番所あっ現在残るのみある大番中之番所同心番所下乗ありそれぞれ守っ[ 15]

遺構編集

現存遺構編集

  • 1956昭和31326 外堀江戸城外堀として史跡指定
  • 1960昭和35520江戸城跡として特別史跡指定

現在桜田門田安清水以上重要文化財指定いる遺構として現存いる

  • 関東大震災倒壊最初内部コンクリート造り木造復元富士見伏見多聞桜田同心番所番所大番など宮内庁管理ため重要文化財など指定ない現存する

遺構編集

  • 川越喜多氷川神社3将軍家誕生れる江戸城江戸移築建物残る移築建物川越御殿二つ御殿られる
  • 近年[?]都市開発動き伴い丸の内霞が関文部科学外堀石垣地中より発掘
  • 1910明治43蓮池御門名古屋正門として移築1945昭和20名古屋大空襲焼失復元

復元編集

  • 1964昭和39 清水田安上部復元
  • 東京空襲によって焼失大手門1967昭和42復元
  • 1968昭和43 二ノ小堀回遊庭園復元諏訪茶屋吹上御苑より移築
  • 江戸城障壁下絵狩野東京国立博物館本丸御殿再建描か障壁下絵あり御殿平面併せること幕末御殿内装知ること可能これにより廊下再現可能なっ
  • 宮内庁設計製作5000展示建築540014002年間期間かけ寛永天守1/30スケール復元模型製作[22]20209より皇居御苑本丸地区において公開いる[23]
  • 現在[?]NPO法人江戸城再建目指す観光推進する観光立国シンボルべく16573焼失天守再建目指し活動会員募っいる2010平成22当時資料寛永天守詳細CG復元作成[24]しか現存天守天守建っ史料なく寛永天守再建する寛永天守あっ天守現存天守より1から1ほど高い[25]

現地情報編集

所在地
  • 東京千代田千代田千代田全体皇居敷地一般参賀など除き部外自由立ち入り出来ない
交通アクセス皇居御苑

その他編集

  • 静岡東伊豆江戸城使う切り出しまで運ぶ様子再現曳き行わいる
  • 2017平成2928松江松江歴史極秘諸国見つかりその家康築城慶長江戸城描い最古平面江戸はじめず27.6 cm40cmあっ[26][27]この絵図により慶長江戸城天守姫路城よう連立本丸幾重にも枡形設けられこと分かっ

脚注編集

[脚注使い方]

注釈編集

  1. ^ 梅林当たる江戸時代平河門外次いで移さ平河天満宮なっ
  2. ^ このため旧暦81八朔江戸時代を通じて祝われることなるなお家康家臣ある平家日記日記よれ実際入城718あっという[13]
  3. ^ 従来徳川家康入部江戸寂れ寒村ようあっ実際荒川入間川など関東平野一帯河川物流東京湾内物流結節としてある程度栄えれるまたなんらかの戦略経済価値なけれ徳川そこ本拠選ばなかっはずあるまた裕之小田原攻め秀吉江戸城自ら御座所設ける構想示しする文書富岡文書存在指摘秀吉関東奥羽統治拠点として江戸城高く評価する指摘いる[14]
  4. ^ この石船運ぶ暴風雨によって沈んれる
  5. ^ 閣図 炎上焼失従来欠本目録作成
  6. ^ 改易れるまで里見屋敷残っ
  7. ^ なお宮上従え天守壁面材質破風配置など除け基本同じ規模構造
  8. ^ 多大支出ばかり嵩ん幕府財政近年さらなる悪化破綻予想ためある
  9. ^ その名残として天守に当たる休息数寄屋富士見多聞北側から石室西側まで本丸石垣現在より一段高くなっいる
  10. ^ 79重なるという意味あるので5可能高い
  11. ^ ただし金澤三浦当代双方記述内容矛盾する
  12. ^ 二ノ東照宮として移転また津軽最上階東照宮あっ記載いる
  13. ^ 規模時期により異なるのでこれある
  14. ^ 御殿など含ん主要57櫓門45更に枡形構成いるおよそ39
  15. ^ 現在同心番所移転いる

出典編集

  1. ^ 2003 [ページ番号]異説あり
  2. ^ a b c d 江戸城 ブリタニカ国際百科事典 項目事典
  3. ^ 江戸城 デジタル大辞泉
  4. ^ 1974 [ページ番号]
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参考文献編集

史料
文献
  • 柴裕之徳川家康境界の領主から天下人へ平凡社中世から近世へ2017年7月24日ISBN 978-4-582-47731-3
  • 徳川幕府事典竹内 東京出版2003716ISBN 978-4-490-10621-3
  • 中江克己江戸醜聞事件: 情死からクーデターまで学研プラス学研M文庫 -3-520106ISBN 978-4-05-901265-8
  • 三千雄江戸城増補 東京名著出版1974NCID BN13232558ASIN B000J9FQAG
  • 深井図解 江戸城よむ大奥 中奥 書房199721ISBN 978-4-562-02849-8
  • 深井江戸城本丸御殿幕府政治中央公論中公新書 1945200841ISBN 978-4-12-101945-5
  • 宮上徳川家康創建江戸城天守復元日本建築学会19909
  • 村井益男江戸城 将軍家生活講談社講談社学術文庫 18822008710ISBN 978-4-06-159882-9
  • 江戸街道起点藤田大岡 吉川弘文館街道日本 202003213ISBN 978-4-642-06220-6

関連項目編集

外部リンク編集