この記事は、ウィキペディアの項目「江戸」を素材として二次利用しています。

前記項目と同様CC-BY-SA 3.0のもとで公表されます。

文章の各部をクリックすることで対応部が着色するように改変されています。

操作方法は関数型玩具製作所

江戸 - Wikipedia

江戸

東京旧称あり1603から1868まで江戸幕府置か都市

江戸 [1]東京旧称あり1603慶長8から1868慶応4まで江戸幕府置か都市ある

江戸屏風見る初期江戸
年間1844-1848年改訂江戸
1853青山通り宮益坂青山2丁目麻布長谷寺中央近辺根岸信輔

現在東京都中央位置その前身及び原型当たる

概要編集

江戸江戸時代江戸幕府置か日本政治中心行政首都として発展また江戸城徳川将軍居城あり江戸幕府政庁置かれる行政府所在地ある同時に自身天領支配する領主ある徳川徳川将軍家城下町ありよう呼ばれることあっ

徳川関ヶ原戦い勝利1603征夷大将軍なる徳川本拠地江戸一気に重要増し徳川服する武将大名江戸市街地普請命じ切り崩し入り江埋め立て行い江戸規模拡張行い旗本御家人など武士家臣その家族数多く居住するようなるとともに町人呼び寄せられ江戸急速拡大1612慶長17江戸実施[2]1623元和9武家町人住むこと禁じられ1635寛永12参勤交代始まる新た大名その家族ため武家屋敷建設

1657323旧暦119大火発生多大被害生じその後市街地拡大続い

江戸大きく分ける江戸城南西ないし広がる山の手隅田川はじめする数々河川面し下町大別れる江戸時代前期山の手武家屋敷下町町人一般言わ江戸時代中期以降人口増加によって山の手町人存在千代田一部挙げられるたり下町多く武家屋敷存在するなど実際かなり複雑様相示し江戸都市圏非常多数そして多様存在するようなり江戸言われるようなり18世紀初頭人口超え世界有数大都市発展遂げ膨大庶民によって多彩文化開花また江戸循環社会リサイクル根付いいる社会あっ[3]江戸住人江戸江戸江戸など言っ江戸生まれ育っ生粋(きっすい)江戸根っから江戸らしい性質小さなことこだわらだが意地張りしばしばせっかち短気等々備え町人江戸っ子呼ば#江戸生活文化

なお江戸超える仏教寺院存在

江戸行政司法および警察編集

最初江戸町方支配行政司法江戸町奉行町奉行および北町奉行管理町奉行管理 あくまで町方のみあり神社寺院私有地ある寺社前地江戸城大名屋敷武家町奉行管理支配及ばなかっ

だがその後17452寺社前地町屋江戸奉行管理すること正式通達門前社領440箇所寺社境内借家127箇所合計567箇所町奉行支配なっ江戸町支配寺社門前8(1723)16723(1746)1678天保19(1843)1719増え江戸図説よる天明年中(1785)江戸1650町方1200寺社前地400大名上屋敷265ヶ所中屋敷下屋敷466ヶ所[ 1]神社凡そ200寺院1000余所記述ある

町奉行管理領域だけなく江戸御府内範囲時代によって変化あり特に寺社門前どう取り扱うについて幕府役人混乱あっこと伺わせる書簡残っいる1818文政元年江戸御府内町奉行支配領域呼び江戸御府内あっ町奉行支配ない地域郊外できこれら地域武家屋敷武家所領寺社門前寺社所領など御府内あっ一部代官支配体制続いおり武家屋敷と共にかなり農地存在また一部町屋形成考えられいるまた1854安政元年以降吉原品川三軒糸割符猿屋町会まで町奉行支配入っ

幕末江戸明治初頭東京編集

徳川幕府実に260ほど続い幕末内政外政また後継選び問題山積状態なり混乱来たし

1862文久2参勤交代緩和江戸武家人口激減政治中心京都移り15将軍徳川慶喜将軍として江戸居住ないよう状態あっ徳川敵対する勢力によって一連軍事また政治クーデターある明治維新行わ1868明治元年発せられ江戸シテ東京スノ詔書によって江戸東京改称東京改称とともに町奉行支配管轄する東京また天皇東京行幸により江戸城東京皇居

明治維新により徳川将軍家静岡人口減少明治2(1869)東京新た引き直し内側市街地外側郷村定めこの範囲江戸時代範囲おおむね相当安政年間以降江戸組み込ま品川など東京として扱わ1048()減っ翌年最初京都あっ明治政府東京移さ江戸時代200以上江戸行政首都あっわけある再び日本事実首都なっ1871廃藩置県行わ東京東京置き換わっ

歴史編集

徳川以前江戸編集

江戸という地名鎌倉幕府歴史吾妻史料おおよそ平安時代後半発生地名ある考えられいる

平安時代中期930年代成立和名聚抄まだ江戸言う地名登場豊島湯島荏原田郷存在記さいる湯島現在文京湯島同区小日向田郷千代田霞が関旧称ある桜田あっ推定いる江戸元々湯島もしくは属する地名あっ考えられいる[4]後述江戸武士名乗り同様江戸所領ため江戸称し考えられるため江戸歴史登場する平安時代末期既に江戸という地名存在言える[4]

地名由来諸説あるあるいは入江する入口意味するから入り口由来考える有力あるまた港町名称用いられる多いことからする[ 2][5]あるあるいは江戸近郊あっれる今津亀津奥津という地名現在今戸亀戸奥戸称さいるからする[4]ある当時江戸武蔵下総国境ある隅田川河口西位置日比谷入江呼ばれる入江江戸城間近入り込ん

江戸開発平安時代後期武蔵秩父地方からから入間川荒川沿い平野進出桓武称する秩父一族によって始められ12世紀秩父から江戸江戸桜田高台構えのち江戸城[6]江戸地名とっ江戸太郎称し江戸興すある江戸1180頼朝挙兵当初平家として頼朝三浦戦っ和解鎌倉幕府御家人なっ元年1031261江戸一族あっ地頭戸長飢饉による荒廃経営できなくなっ江戸郷前島現在東京周辺北条宗家寄進その被官なり1315まで宗家から円覚寺寄進いること記録として残さいるここにおいて和名聚抄段階存在なかっ江戸という地名見ること出来るまた弘安44151281長重同族られる平重作成[7]ゑとのかう江戸あるさきむらある在家田畠譲渡に関する記述くるこの江戸芝崎もしくは柴崎前島北側神田付近推定いる[4]この鎌倉から奥州街道日比谷入江注ぐ平川かかる高橋渡り鳥越鳥越神社付近浅草通っこの平川沿い早くからできようある[8]なお過去平川当初から日本橋流れ現在江戸城三ノ丸付近日比谷入江注い認識いる[9]芝崎西側ある平川河口平川存在平川及び平川流域江戸一部として認識れるようなっいっ

鎌倉幕府滅びる江戸一族南北騒乱において新田義貞に従ってついたり室町時代次第に衰え戦国末期多摩喜多見活動いるまた応永27(1420)紀州熊野神社書き留め江戸苗字よれさらに多摩川下流大田蒲田六郷鵜の木丸子隅田川下流金杉石浜牛島江戸国府柴崎古川沿い飯倉小石川沿い小日向渋谷沿い渋谷善福寺沿い中野阿佐谷江戸一族展開

太田道灌

代わっ江戸関東管領上杉一族扇谷上杉有力武将あり家老あっ太田資長のち太田道灌入り江戸居館江戸城築く江戸城一説康正21456建設始め翌年完成という鎌倉大草太田資長文明101478剃髪道灌号し文明181486謀殺れるまで江戸城中心南関東活躍道灌時代平川日比谷入江注いおり江戸前挟ん西日比谷入江江戸ただし東京稿日比谷入江江戸いるあり浅草品川並ぶ中世武蔵代表あっ江戸品川利根川現在利根川中川荒川など河口近く北関東内陸から水運用い鎌倉小田原西国方面出る中継地点なっ

太田道灌時代長く続い応仁により荒廃京都離れ権勢良かっ道灌頼り下向する学者僧侶多かっられ平川中心城下町形成[10]吉祥寺当時城下町はずれにあたる現在大手町付近あり江戸時代初期移転命じられるまで周辺墓地広がっ現在東京八重洲北口遺跡平河号する浄土寺縁起からかつて北側平川沿い城下町あっられいるまた戦国時代大橋宿呼ばれる宿場形成更に江戸城結ぶ川越街道小田原方面結ぶ矢倉沢往還この時期整備考えられ万里宗祇など多く文化東国途中江戸訪れこと知らいる[11]

道灌死後扇谷上杉当主ある上杉朝良結果隠居余儀なく江戸城閉居することなっところがその後朝良実権取り戻し江戸政務行い継い朝興江戸城並ぶ扇谷上杉武蔵支配拠点位置付けだが扇谷上杉高輪戦い北条敗れ江戸城北条支配移っ既に相模伊豆支配北条江戸支配によって東京湾江戸西半分完全支配置きこれ衝撃受け半分房総半島勢力公方里見北条対決決意言わいる[12]北条末期北条氏政直接支配太田千葉統率支城支配として東京23隅田川以西以南及び墨田川崎多摩地区一部まで含まいる

従来徳川家康入城当時江戸あたかも全域寒村ようあっ近年なっ太田道灌及びその後扇谷上杉北条記録古文書から徳川入部以前より江戸交通要衝としてある程度発展おりこうした伝承徳川家康江戸幕府業績強調するため作らものする見方[5]登場するようなっまた吾妻における頼朝入城当時鎌倉に関する描写41012そのまま家康江戸入城描写引用いる可能指摘する研究いる[13]その一方太田道灌時代記録道灌称える要素含まいるため家康以前記録についてその全て史実として受け取ること懐疑意見ある[14]いえ現在中世達成一定成果徳川家康以後江戸発展あっ考えられおり中世文書研究加え歴史考古学による調査進展によって家康以前江戸歴史に関する研究進展すること期待いる[11]

徳川時代江戸編集

徳川家康

ありたり地方城下町から巨大都市改造実現人物徳川家康あっ

1590北条小田原征伐豊臣秀吉滅ぼされる北条旧領封ぜられ関東奥羽方面押さえ期待徳川家康関東地方中心なるべき居城江戸定め[15]同年旧暦81八朔[16]家康駿府から移す当時江戸城老朽粗末あっいう家康江戸城本城拡張一定程度留める代わり城下町建設進め神田削り日比谷入江盛ん埋め立て広げ家臣町民家屋配置突貫工事あっため埋め立て当初地面固まっおら乾燥吹くもの凄い舞い上がるという有様だっ言われるこの時期江戸城これまで本丸二ノ西丸三ノ丸吹上ありまた開削平川江戸前島中央移設それ伴う埋め立てにより現在西丸半分以上埋められいるこの時期本城いえるこの本丸二ノ家康隠居として造ら西丸ある

家康1600関ヶ原戦い勝利天下人なり1603征夷大将軍られる幕府所在地として江戸政治重要一気に高まり徳川服する大名屋敷設けられ江戸居住する大名家臣家族徳川旗本御家人など武士数多く居住するようなるとともに町人呼び寄せ急速拡大江戸城その幕府から大名課せられ普請によって整備江戸城巨大生まれ変わり武家屋敷取り巻く広大構築都市開発歴史について都市述べる

愛宕山から江戸パノラマ 撮影フェリーチェ・ベアト 1865-1866

1657大火再建事業によって市域隅田川超え拡大その人口絶えず拡大続け18世紀初頭人口超え大江戸いわれる世界有数一説よる当時世界一大都市発展遂げ人口増大江戸東日本における消費日本各地農村結ば市場経済先進地方ある上方近畿地方関東地方結ぶ中継市場として経済重要増し当時江戸東都歳時記富嶽みる葛飾北斎両国現在墨田から作品などからられるよう東都呼ばれる大都市なっ18世紀から19世紀初め上方かわる文化中心なり経済活動参勤交代通じ江戸中心する往来江戸から地方地方から江戸盛ん文化伝播もたらし一方膨大人口農村から江戸流入様々都市問題引き起こすことなっ

江戸人口編集

江戸範囲編集

江戸明治範囲引き継い明治東京市1888江戸城現在丸の内東京付近中心する半径4kmほど為す

江戸地名呼ばれる地域江戸御府内ともいっその範囲時期により幕府部局により異なっ一般江戸御府内町奉行支配範囲理解その支配拡大いっ寛文2(1662)街道代官支配300編入正徳3(1713)町屋成立場所259編入さらに2(1745)寺社門前440カ所境内227町奉行支配移管この町奉行支配範囲別に御府内範囲御構範囲寺社奉行勧化許す範囲塗り高札掲示範囲旗本御家人出るとき範囲など決められこれら御府内異同是正するため文政元年(1818)絵図引き御府内範囲確定これにより御府内朱引しゅびうち称するようなっ[17] この範囲朱引ゅびきそと称し 元々平安時代存在荏原田郷江戸城西南一部あっやがて豊島江戸呼ばれるようなっ

江戸時代初期における江戸範囲現在東京千代田その周辺あり江戸城外堀これ取り囲むよう建造大火以後その市街地拡大通称呼ばれるようなる1818制定によって江戸市域初めて正式定められることなっ[18]今日大江戸としてイメージれる一般にこの範囲ある[19]

江戸市街地拡大 (内藤 江戸その築城都市計画 月刊文化財 175(1978))
年号 西暦 面積 武家 町人 寺社 その他
正保年中 1647 43.95 km2 34.06 km2
(77.4%)
4.29 km2
(9.8%)
4.50 km2
(10.3%)
1.10 km2
(2.5%)
寛文1013 16701673 63.42 km2 43.66 km2
(68.9%)
6.75 km2
(10.6%)
7.90 km2
(12.4%)
5.1 km2
(8.1%)
10 1725 69.93 km2 46.47 km2
(66.4%)
8.72 km2
(12.5%)
10.74 km2
(15.4%)
4.00 km2
(5.7%)
慶応元年 1865 79.8 km2 50.7 km2
(63,5%)
14.2 km2
(17.8%)
10.1 km2
(12.7%)
4.8 km2
(6.0%)
明治2 1869 56.36 km2 38.65 km2
(68.6%)
8.92 km2
(15.8%)
8.80 km2
(15.6%)

以下江戸含まれる歴史地名あげる

実際既に触れよう江戸平安時代末期から関東南部要衝あっ確か徳川記録伝えるよう北条時代江戸城重要支城までみなさ15世紀粗末造りまま残さ首府なりうる基礎すでに存在

しかし江戸都市として発展するため日比谷入江隅田川河口西にあたる江戸前呼ばれる砂州除け城下町つくるため十分平地存在ないこと大きな障害なるそこで徳川まず江戸城和田から隅田川まで穿ちそこから日比谷入江埋め立て開始墨田河口から江戸城まで建造必要木材石材搬入するため活用左右舟町形成またからあっ平地ある常盤橋門外から日本橋新た町人設定この時期同じく平川日比谷入江から江戸前貫通する変更行わ思われるこれ江戸本町日本銀行本店三越本店ある一帯あるさらにからあっ周辺集落ある浅草西赤坂牛込町屋発展この江戸姿伝える地図として慶長江戸知らいる

江戸中心主要寺社部分江戸から守る神田隅田川

江戸字形設計[20]こと一般城下町比べ特異あるいわれる つまり江戸城本城大手から和田馬場先桜田門内側ある本丸二の丸西の丸など内郭将軍次期将軍なる将軍世子先代将軍ある大御所住む御殿造らその西にあたる半蔵門吹上将軍親族ある御三家屋敷置か内城大手門から和田門外譜代大名屋敷桜田門外様大名屋敷定められ西半蔵門から一ツ橋神田門外至る台地旗本御家人住まわささらに武家屋敷大名敷地常盤橋呉服鍛冶数寄屋から隅田川江戸至るまで日比谷埋立地方面町人広げられこれ地図見るちょうど大手から数寄屋橋至るまで内外渦巻き将軍親藩譜代外様大名旗本御家人町人配置いるなる巻き貝大きくするよう渦巻き柔軟拡大できる構造取っこと江戸拡大手助け

家康死後2将軍徳川秀忠江戸北東守り確保するため小石川西から流れ平川まっすぐ通す改修行っ水道から万世橋秋葉原本郷から駿河台まで伸びる神田台地あっためこれ掘り割っ人工造っ通しそこから西から神田台地から隅田川流れ中川転用浅草橋通っ隅田川流れるようこれ江戸城外堀ある神田あるこの工事によって平川下流あっ一ツ橋神田日本橋隅田川至る川筋神田平川から切り離さ江戸城なっこの再び神田接続神田支流日本橋なる明治時代ことある

更に3将軍徳川家光これまで手薄残さ西部外郭固めること溜池神田注ぎ込む小川利用溜池から赤坂四ッ谷市ヶ谷牛込至り神田接する外堀造ら全国外様大名動員行わ外堀工事1636竣工ここ御成門から浅草橋至る江戸城外側部分完成

城下町において武家町人ならぶ要素寺社ある江戸寺社配置風水思想重視いうそもそも江戸城徳川選ば理由一因江戸当初玄武台地青龍平川朱雀日比谷入江西白虎東海道江戸拡大玄武本郷台地青龍大川隅田川朱雀江戸白虎甲州街道相応則っいるれる[21]関東独立掲げ武将代表怨霊ある平将門祭る神田明神大手門現在周辺から江戸城鬼門にあたる駿河台移さ江戸鎮守として奉らまた江戸城建設伴っ城内あっ山王権現現在日枝神社裏鬼門ある赤坂移される更に家康帰依天台宗天海江戸城鬼門にあたる上野拝領京都鬼門封じある比叡山倣っ堂塔建設1625寛永寺開山寛永寺山号叡山すなわち比叡山意味おり寺号延暦寺同じよう建立年号から取らいる

江戸海辺埋め立て作らため井戸掘っ真水十分得ることでき確保問題なるそこで赤坂からあっ溜池活用れると共に井の頭水源する神田上水造らやがて江戸人口増え来るこれだけ供給切れなくなり水不足深刻なっこのため造ら水道1653完成玉川上水ある水道江戸っ子自慢一つ水道産湯使いなど言う言葉よく使われる

1640江戸城工事最終完成江戸都市建設ひとつ終着達ししかし1657大火起こる江戸部分焼亡江戸城天守炎上しまっ幕府これ以降火事できるだけ妨げられるよう都市計画変更することなっこれまで吹上あっ御三家屋敷半蔵門紀尾井町移されるなど大名屋敷配置換え行わ類焼防ぐため火除として十分空き地庭園設けられ

大名屋敷再建参勤交代ため多く武士滞在するようなる彼ら生活支えるため江戸急速復興するもはや外堀江戸すぎる状態だっこうして江戸拡大始まり隅田川対岸深川永代まで都市進んいっ西都市及び外延上野浅草盛り場として発展さらに外側吉原遊郭置か

神社仏閣編集

神社編集

寺院編集

葛飾北斎 叡山中堂

編集

江戸近郊編集

江戸生活文化編集

江戸さまざま場所から富士山見ることでき江戸住人富士山愛し江戸富士見富士見えるというつい多い浮世絵多数描かまた富士山信仰する富士非常さかんなり江戸多数富士信者その結果わざわざ富士山まで行くことできない住民ため富士塚多数作ら近所日々富士登山できるようなっ富士塚現在でも多数残っいるこの浮世絵目黒二つあっ富士塚うちひとつ新富士現存富士山描いものある目黒新富士名所江戸より歌川広重江戸後期

娯楽編集

江戸歌舞伎市村青砥稿白浪より瀬川勢揃い歌川豊国1862文久2江戸時代町人文化代表する歌舞伎時代作者河竹黙阿弥活躍江戸歌舞伎隆盛極め
歌舞伎

1624寛永元年中村勘三郎京都から江戸移り町奉行許可開き江戸芝居小屋始まっ最初江戸中橋現在日本橋京橋中間あたりあっやがて人形移転元禄時代16881704江戸歌舞伎隆盛なり芝居小屋市村葺屋 人形森田木挽現在歌舞伎座あたり山村木挽4つなっ江戸言う

江戸落語

江戸落語17世紀後半貞享元禄年間鹿野左衛門によって始められ18世紀後半焉馬三笑亭可楽初代によって寄席芸能として確立言わいる

服装編集

編集

江戸識字編集

江戸成人男性識字幕末70%超え時期ロンドン (20%)、パリ10%未満遥か凌ぎ世界見れ極めて高い水準ある言うことできるロシア革命メーチニコフドイツ考古学者シュリーマン驚きって識字状況について書いいるまた武士だけなく農民和歌嗜ん言わおりその背景寺子屋普及あっ考えられ高札いわゆる触書公表たり瓦版本屋大いに繁盛事実から大半町人文字読む出来考えられいるただし識字高い武士階級人口多いため識字かさ上げいる間違いなく当時全国平均識字20%から50%程度推定いる[26]また明治時代入っからある徴兵施行調査事務処理出来る実用レベル読み書き出来るもの20%程度だっという[出典]

故事成語編集

火事とき周り倒し広がる防い木造建築ので移りやすいため

  • 江戸長崎討つ
  • 江戸っ子宵越し持た
  • 江戸っ子5吹き流し
  • 江戸っ子食うよう
  • 江戸っ子初もの食い
  • 江戸っ子貯め
  • おれ大坂喰いおれ江戸呑みおれ(ファッションお金使い大坂グルメお金使い江戸呑ん酔いつぶれいる)[27]

江戸から東京編集

慶応4/明治元年旧暦131868127戊辰戦争起こり鳥羽伏見戦い幕府敗れる大軍江戸迫り江戸戦火晒される危険陥っ幕臣勝海早期停戦唱え薩長率いる西郷隆盛交渉同年旧暦41153最後将軍徳川慶喜江戸城無血開城降伏交戦官軍上野戦争例外として江戸戦火免れ江戸無血開城

同年旧暦51271中心江戸設置同年旧暦717(96)江戸東京改称江戸東京なっ江戸シテ東京スノ詔書同年旧暦10131126明治天皇東京行幸江戸城東京改称明治2旧暦219(1869331)新た引き範囲定められ旧暦316427番組敷か旧暦32859明治天皇度目行幸行い東京称しかつて将軍居住する都市江戸天皇する都市東京なっ東京奠都旧暦112(124)武家含め地域東京管轄なっ明治4旧暦691871726改定基づく導入

同年旧暦714829廃藩置県以降段階周辺地域東京併合明治4旧暦1227187225武家という名称廃止明治7187434東京十一再編明治111878112東京落ち着く以降東京町並東京東京変遷つつ東京都市拡大ゆく過程かつて江戸うち隅田川以東本所深川除い地区都心なりその中核として役割果たしいる

江戸題材作品編集

小説編集

随筆編集

映画テレビドラマ編集

その他多数あり

著名出身編集

江戸編集

水路江戸象徴する町並特徴あり造り町並残さ栃木埼玉川越千葉香取佐原市街地など関東地方河港都市江戸構造という江戸交流深かっというから江戸呼ばいる

なお上記用法として初期江戸城下町後年広域江戸城下町意味する大江戸に対して江戸称する用法ある

脚注編集

[脚注使い方]
  1. ^ ただし屋敷並びに屋敷除い
  2. ^ この場合江戸語源忘れられ出来重言れる
出典など
  1. ^ 外国EdoYedoYeddoYendoJedoなど表記あり
  2. ^ 慶長
  3. ^ 石川英輔大江戸リサイクル事情 講談社 1997
  4. ^ a b c d 山田邦明古代中世江戸初出:藤田大岡 街道日本20 江戸吉川弘文館2003 ISBN 978-4-642-06220-6 /所収:山田鎌倉地域社会2014 ISBN 978-4-88621-681-6
  5. ^ a b 岡野友彦家康なぜ江戸選ん教育出版1999
  6. ^ 山田邦明古代中世江戸桜田本来平川流域地域指し江戸一部なく江戸勢力拡大太田道灌江戸城築城伴う江戸拡大よって本来属し荏原から切り離さ豊島江戸一部なっいるまた山田江戸江戸城なく平川流域現在水道橋付近あっする提示いる
  7. ^ 深江文書
  8. ^ 内藤江戸p.6-7
  9. ^ 岡野友彦題詩再考江戸遺跡研究江戸開府土木技術吉川弘文館2014
  10. ^ 内藤江戸p8-9
  11. ^ a b 齋藤慎一中世東国東京大学出版2010南関東都市2004発表/近世移行都市江戸稿
  12. ^ 佐藤博信公方足利成立展開中世東国政治史書房20061992発表
  13. ^ 平安時代後期妙見信仰中心寺院として朝廷知ら鎌倉生源寺現在鶴岡八幡宮付近あり鎌倉幕府成立岩窟不動尊移さ改名廃仏毀釈廃寺存在など指摘頼朝以前鎌倉都市まで言えなく東国天台宗重要拠点あっする福島金治見解福島金治鶴岡八幡宮成立鎌倉生源寺江ノ島地方研究協議都市近郊信仰遊山観光 交流引用雄山閣1999ISBN 4-639-01640-9 P24-2836.)。
  14. ^ 代表ものとして平野明夫太田道灌江戸城東京教育委員文化財保護211989など
  15. ^ 裕之小田原征伐豊臣秀吉江戸城御座所設ける意向表明おり富田文書家康本拠地決定について秀吉意向働いいる裕之 徳川家康 境界領主から天下 平凡社中世から近世20176ISBN 978-4-582-47731-3 P195.
  16. ^ 平家日記よれ718れるなお裕之徳川領国最終確定81あっことから江戸幕府成立徳川領国確定八朔重ねるこの家康入城定めする裕之 徳川家康 境界領主から天下 平凡社中世から近世20176ISBN 978-4-582-47731-3 P193.
  17. ^ 竹内古泉池上裕子加藤藤野東京歴史山川出版 2003 168-170
  18. ^ 江戸範囲 レファレンス 東京公文書 研究紀要4p45-48平成143
  19. ^ 江戸市街地広がり大江戸 シリーズレファレンス 東京公文書より 6p6東京公文書発行平成173
  20. ^ 内藤
  21. ^ 柳営
  22. ^ 江戸文化紀行
  23. ^ 宮崎食卓変え肉食(1)カレー牛肉豚肉替える文化出来(2)カツレツ豚肉作る特においしい知ら(3)牛肉豚肉にとって替わらいっ変化状況説明
  24. ^ 吉田牛肉日本人ISBN 978-4540911064(1)東京真っ先豚肉によって食肉消費増加 (2)豚カツはじめ豚肉消費多様(3)牛肉料理豚肉変えたらどう工夫重ねる最初江戸において変化起こっ
  25. ^ 農林省畜産本邦養豚全国(1)1916 337,891(2)1925 672,5839倍増データ前述変化
  26. ^ 鈴木理恵, "江戸時代における識字多様", 史学研究, 209 (1995), pp. 2340. 江戸時代識字状況証拠(文書による支配徹底年貢請制実現商品経済浸透寺子屋隆盛欧米旅行記載出版隆盛多量多彩文書蓄積)から推定ものあり批判多いまたヨーロッパ識字読めること男らしくない格好悪い騎士時代考え方名残という文化背景自分名前かける程度識字カウントいるなど考慮なくならない
  27. ^ 朝日ジャーナル大江戸曼荼羅p.211朝日新聞社1996

外部リンク編集

関連項目編集

学問
文化
その他

関連書籍編集