明治維新
明治維新(めいじいしん、英語: Meiji Restoration)とは、明治時代初期の日本(幕末)において薩長土肥の四藩中心に行われた江戸幕府に対する倒幕運動および、それに伴う一連の近代化改革を指す。その範囲は、政治や中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策の改革・近代化などを含んだ。
改革の時期編集
開始時期については諸説あるが、狭義では明治改元に当たる明治元年旧9月8日(1868年10月23日)となる。しかし、一般的にはその前年に当たる慶応3年(1867年)の大政奉還、王政復古以降の改革を指すことが多い(維新体制が整う以前の政治状況については幕末の項で扱うものとする)。終了時期についても、廃藩置県(明治4年、1871年)、西南戦争終結(明治10年、1877年)、内閣制度の発足(明治18年、1885年)、立憲体制の確立(明治22年、1889年)までとするなど諸説ある。
この期間の政府(一般的には慶応3年12月9日(1868年1月3日)の王政復古以後に成立した政権[1])を特に明治政府(めいじせいふ)、新政府(しんせいふ)、維新政府(いしんせいふ)などと呼称することが多い。
名称:維新と革命編集
英語表記はMeiji restoration[2]が多く、「明治の(王政)復古」の意味になる。他にMeiji Ishin[3]、Meiji restoration and revolution[4]などが見られる。
維新は英語で王政復古を意味するRestorationと表記されることが多いが、これは慶應3年12月9日(1868年1月3日)に岩倉具視らが上程した大令(いわゆる王政復古の大号令)の中の王政復古の英語訳であるとされる[5]。
先帝(孝明天皇)頻年被惱宸襟(しんきん)候御次第、衆庶之知る所に候。依之叡慮を決せられ、王政復古、国威挽回ノ御基(もとい)立てさせられ候間、自今、摂関幕府等廢絕し… — 大令(王政復古の大号令)[6][5]、慶應3年12月9日(1868年1月3日)
英国外交官フランシス・O・アダムスの『日本史』(1874-75)ではこの大令を「a basis should be formed for a return to the ancient form of government by the Sovereign,and for the restoration of the national dignity」と説明された[7]。この場合、restorationは「王政復古」ではなく、「国威挽回」の訳語として用いられたが、日本政治思想史研究者の苅部直は、日本の開国後出版された西欧人による初めての日本紹介であるアダムスの『日本史』から、慶応三年の改革をrestorationと呼ぶ用法が定着していったのだろうと指摘する[5]。
他方、ウィリアム・グリフィスのThe Mikado's Empire(『ミカドの帝国』、1876年)では、将軍政権の崩壊とミカド(天皇)の最高権力への復帰(restoration)が目撃されたとし、最近の日本では、対外政策の転換、社会改革、西洋文明の受容の三重の政治革命(a three-fold political revolution)が進行していたと認識していた[8][5]。苅部によれば、幕末から明治にかけての体制転換は、徳川公方から京都の天皇への単なる政権交代というだけでなく、公儀または幕府が大名と朝廷を統制するそれまでの国家全体の体制を改めることであり、様々な制度改革を通じて、身分に基づく支配などが廃止され、西洋文明への受容へと大きく舵が切られたような、社会の急激な変化であり、また、当時の日本国内ではこのような世の中を根本から立て直そうとする動きは「御一新」として歓迎されたことなどからも、このような体制転換にふさわしい英語はrevolutionであり、これは同時代の日本人が抱いた実感でもあったという[5]。また、明治政府が「維新」でなく「革命」と表現していたら、「明治革命」と言った名称も定着していた可能性もあったという[5]。
「岩倉公実記」によれば、岩倉具視に意見を求められた国学者の玉松操が慶応3年(または慶応2年)に「王政復古は務めて度量を宏くし規模を大にせんことを要す。故に官職制度を建定せんには、当に神武帝の肇基に原づき、カン宇の統一を図り、万機の維新に従ふを以て規準と為すべし」と答えた[5]。玉松においては、徳川政権からの権力の移譲は、「征夷大将軍」という官位を「禁裡様」へ返上するという形で行われたため、易姓革命でいう王朝交代ではなかったため、「革命」でなく「維新」の表現が選ばれ、明治政府もこれを踏襲した[5]。
幕末の情勢と江戸幕府の崩壊編集
一般的に、明治維新の始まりは黒船来航に象徴される欧米列強の経済的・軍事的拡大政策に対する抵抗運動(攘夷運動)に起源を持つとされる。
19世紀、江戸幕府の支配体制は綻びが見え始めていた。ロシア、アメリカをはじめとする外国船の来航と通商要求や、フェートン号事件やモリソン号事件などの外圧の高まりに加えて、宝暦事件、明和事件、大塩平八郎の乱といった内紛・内乱や民衆運動である打ちこわしが盛んになった。老中松平定信や国学者の本居宣長などは大政委任論を唱え、幕府の政治は天皇から委任されたものと考える見方が主流化し、国学者や水戸学を中心に尊皇思想・尊王論が広まっていった。
19世紀半ばのアヘン戦争以後、欧米による帝国主義政策の影響が東アジアに浸透するにつれ、水戸学等の国学を基盤として、外国勢力を排斥して江戸幕府開闢以来の基本政策である鎖国政策と幕藩体制を維持しようとする攘夷思想が現れた。しかし江戸幕府は開国・通商路線を選択したため、攘夷思想は尊王論と結びつき、朝廷の権威のもと幕政改革と攘夷の実行を求める尊王攘夷運動として、武士階層を中心に広く普及していった。
一方、幕府側の開国・通商路線を是認する諸藩の中にも、いわゆる雄藩を中心に、幕府による対外貿易の独占に反対し、あるいは欧米列強に対抗すべく旧来の幕藩体制の変革を訴える勢力が現れた。これらの勢力もまた朝廷を奉じてその要求を実現させようとしたため、京都を舞台に朝廷を巡る複雑な政争が展開されることとなった。そのような風潮の中、薩英戦争や下関戦争などにおいて欧米列強との軍事力の差が改めて認識されたことで、観念的な攘夷論を克服し、国内の政治権力の統一や体制改革(近代化)を進め、外国との交易によって富国強兵を図り、欧米に対抗できる力をつけるべきだとする「大攘夷」論が台頭し、尊王攘夷運動の盟主的存在だった長州藩も開国論へと転向していくことになった。イギリス外交官アーネスト・サトウの論文『英国策論』の和訳が横浜のジャパン・タイムズに掲載され、天子主権論と討幕を理論づけた。ただこの書の内容は、英国留学中の薩摩藩士松木弘安が英国の外務大臣に提出したものとの類似性が指摘されている[9]。
幕府は公武合体政策を掲げ、尊王攘夷派の攘夷要求と妥協しつつ旧体制の存続を模索したため、外国勢力の脅威に直面していた急進的な雄藩の支持を失っていった。またこの時期、黒船来航以来の幕府の威信の低下と世情不安の高まりを背景として農民一揆が多発するようになった。このような情勢の中、諸侯連合政権を志向する土佐藩・越前藩らの主張(公議政体論)や、より寡頭的な政権を志向する薩摩藩の主張など、国政改革のために幕府を廃して朝廷の下に中央集権的な政治体制を樹立しようとする構想が幕政において急速に支持を集めていった。結果としてこれらの改革勢力の協力の下に王政復古が宣言され、古代の律令制や中世の建武の新政に中央集権的王権統治の先例を求めつつも、天皇が欧米列強諸国の君主同様に近代国家の主権者として統治する体制を採る明治政府が誕生した。戊辰戦争による旧幕府勢力の排除を経て権力を確立したこの新政府は、薩摩・長州両藩出身の官僚層を中心に急進的な近代化政策を推進していくこととなった。
「御一新」の理念編集
五箇条の御誓文編集
江戸幕府による大政奉還を受け、王政復古によって発足した明治新政府の方針は、天皇親政(旧来の幕府・摂関などの廃止)を基本とし、諸外国(主に欧米列強国を指す)に追いつくための改革を模索することであった。その方針は、翌慶応4年(1868年)3月14日に公布された五箇条の御誓文で具体的に明文化されることになる。合議体制、官民一体での国家形成、旧習の打破、世界列国と伍する実力の涵養などである。なお、この『五箇条の御誓文』の起草者・監修者は「旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ」を全く新たに入れた総裁局顧問・木戸孝允(長州藩)であるが、その前段階の『会盟』五箇条の起草者は参与・福岡孝弟(土佐藩)であり、更にその前段階の『議事之体大意』五箇条の起草者は参与・由利公正(越前藩)である。
その当時はまだ戊辰戦争のさなかであり、新政府は日本統一後の国是を内外に呈示する必要があった。そのため、御誓文が、諸大名や、諸外国を意識して明治天皇が百官を率いて、皇祖神に誓いを立てるという形式で出されたのである。さらに国民に対しては、同日に天皇の御名で「億兆安撫国威宣揚の御宸翰」が告示され、天皇自身が今後善政をしき、大いに国威を輝かすので、国民も旧来の陋習から脱却するように説かれている。
これらの内容は、新政府の内政や外交に反映されて具体化されていくとともに、思想的には自由民権運動の理想とされていく。
また、この目的を達するための具体的なスローガンとして「富国強兵」「殖産興業」が頻用された。
五榜の掲示編集
五箇条の御誓文を公布した翌日、幕府の高札が撤去され、辻々には暫定的に江戸幕府の統治政策を踏襲する「五榜の掲示」が立てられた。儒教道徳の遵守、徒党や強訴の禁止、キリスト教の禁止、国外逃亡の禁止などを引き継いだ内容が掲示された。これら条項は、その後の政策の中で撤廃されたり、自然消滅して効力を失うに至る。
新政府の編成編集
明治政府編集
首都の位置編集
首都については、当初京都では旧弊(京都の歴史上のしがらみ)が多いとして、大阪遷都論が大久保利通を中心として唱えられた。しかし、大阪遷都論には反対が多く、江戸城明け渡しもあり、江戸を東京とすることで落ちついた(→東京奠都の項目を参照)。遷都についての正式な布告があったわけではなく、明治天皇の2度の東京行幸により太政官も東京に移され、東京が事実上の首都と見なされるようになった。
行政編集
形式的には、明治維新は律令制の復活劇でもあった。幕藩体制の崩壊に伴い、中央集権国家の確立を急ぐ必要があった新政府は、律令制を範とした名称を復活させた[* 1]。
王政復古の大号令において、幕府や摂政・関白の廃止と天皇親政が定められ、天皇の下に総裁・議定・参与の三職からなる官制が施行された。総裁には有栖川宮親王、議定には皇族・公卿と薩摩・長州・土佐・越前などの藩主が、参与には公家と議定についた藩主の家臣が就任した。しかし、明治天皇はまだ年少であるため[* 2]、それを補佐する体制がすぐに必要となった。
そこで、慶応4年閏4月21日、政体書の公布により、太政官を中心に三権分立制をとる太政官制が採られ[* 3]、さらに翌年7月には、版籍奉還により律令制の二官八省を模した二官六省制が発足した。明治2年の主な組織と役職者は次の通りである[10]。
そして、明治4年7月の廃藩置県の後には正院・左院・右院による三院制が採られた。
具体的な行政機構としては、太政官と神祇官を置き、太政官の下に各省を置く律令制が模写されたものの、その後も民部省から工部省が分離したり、刑部省から司法省に改組したりする幾多の改変を必要とし、安定しなかった。また立法府である左院・右院や地方官会議なども設置・廃止が繰り返された。明治中央官制の改革は明治18年(1885年)の内閣制度発足をもってようやく安定する。
立法編集
また、立法府に関しては木戸孝允らが明治初年から議会開設を唱えていたが、議会制度を発足させるためには、官制改革・民度・国民教育などが未成熟であり、時期尚早であったため、大久保利通を中心に「有司専制」と呼ばれる薩長藩閥による官僚を中心とした改革体制が維持された。しかし、自由民権運動の高まりや、諸制度の整備による改革の成熟などもあり、明治14年(1881年)に「国会開設の詔」が出され、同時に議会制度の前提として伊藤博文らによる憲法制定の動きが本格化し、憲法審議のため枢密院が設置された。明治22年(1889年)に大日本帝国憲法が公布、翌年帝国議会が発足し、アジアでは初の本格的な立憲君主制・議会制国家が完成した[* 4]。
司法編集
- 1868年 - 政体書に基づき、太政官の下に刑法官が置かれた。
- 1869年 - 太政官制が発足し、同年、刑部省が設置された。
- 1871年 - 刑部省と弾正台が合併し、司法省となり、法治国家の基礎が整備された。
- 1875年 - 司法省裁判所に代わる大審院が新たに設置され、司法行政を行う司法省と司法権を行使する大審院が区分された。
地方行政編集
明治新政府は、幕府から受け継いだ天領と「朝敵」となった諸藩からの没収地に行政官を派遣して直轄地とした。つまり、地方行政としては、徳川家を駿府藩に移封し、京都・長崎・函館を政府直轄の「府」とした以外は、原則として以前の藩体制が維持されていた。しかし、富国強兵を目的とする近代国家建設を推進するためには、中央集権化による政府の地方支配強化は是非とも必要なことであった。
まず、明治元年に姫路藩主酒井忠邦が版籍奉還の建白書を提出。続いて明治2年1月20日に薩摩藩・長州藩・土佐藩・肥前藩(薩長土肥)の藩主らが、版籍奉還の上表文を新政府に提出した。これに各藩の藩主たちが続き、6月に返上申請が一段落迎えると、全藩に版籍奉還を命じた。この版籍奉還により旧藩主たちが自発的に版(土地)・籍(人民)を天皇に返上し、改めて知藩事に任命されることで、藩地と領主の分離が図られ、重要地や旧幕府直轄地に置かれた府・県とともに「府藩県体制」となる。
しかし、中央集権化を進め、改革を全国的に網羅する必要があることから、藩の存在は邪魔となり、また藩側でも財政の逼迫が続いたことから自発的に廃藩を申し出る藩が相次いだ。明治4年旧7月14日(1871年8月29日)に、倒幕の中心であった薩摩・長州藩出身の指導者である大久保利通と木戸孝允らにより廃藩置県が実施され、府県制度となり(当初は3府302県、直後に整理され3府72県)、中央政府から知事を派遣する制度が実施された。このとき、知藩事たちは東京への居住を義務付けられた。なお、令制国の地名を用いなかったために、都市名が府県名となった所も少なくない。
薩摩藩の島津久光が不満を述べた以外は目立った反撥はなく(すでに中央軍制が整い、個別の藩が対抗しにくくなっていたこと、藩財政が危機的状況に陥り、知藩事の手に負えなくなったこと、旧藩主が華族として身分・財産が保証されること、などが理由とされる)、国家の支配体制がこのように電撃的、かつ画期的に改変されたのは明治維新における奇蹟ともいえる。
なお、旧幕府時代、名目上は独立国でありながら実質上薩摩藩の支配下にあった琉球王国に関しては、廃藩置県の際に「琉球藩」が設置されて日本国家内に取り込まれることとなり、明治12年(1879年)に沖縄県として正式に県に編入された(この間の経緯は一般に琉球処分と称される。旧琉球国王の尚氏も旧藩主と同様、華族となった)。(→ 沖縄県の歴史)
新国家の建設編集
岩倉使節団の影響編集
1871年12月23日から1873年9月13日にかけて[11]、維新政府は不平等条約改正ならびに西洋の諸制度の研究をするため岩倉具視を正使、大久保利通・木戸孝允・伊藤博文らを副使とする岩倉使節団を欧米へ派遣した。使節団は条約改正には失敗するものの、西洋の諸制度の研究・吸収には成功し、この後の維新の動きに大きな影響を与えた。一方、日本国内においては「留守政府」と呼ばれた日本残留組の西郷隆盛・井上馨・大隈重信・板垣退助・江藤新平・大木喬任らの手によって、次々と改革は進んでいった。このような改革には積極的に西洋文明の先進制度が取り入れられ、その過程で、「お雇い外国人」と呼ばれる外国人が、技術指導、教育分野、官制・軍制整備など様々な分野で雇用され、近代国家建設を助けた。
改革された諸制度編集
留守政府が行った主な改革としては、学制改革、地租改正、徴兵令、太陽暦の採用、司法制度の整備、断髪令などがある。ただし、これらの改革は急激に行われたため矛盾も少なくなく、士族や農民の不満を招いたため、後の征韓論につながったともいわれる。欧米使節から帰国した岩倉や大久保が明治六年政変によって征韓論を退け、さらに大久保の下に内務省が設立されたことで諸改革の整理が行われることになる。ただし留守政府の行った改革のほとんどは政変後も存続し、明治維新の根幹の政策となっていった。
軍隊編集
徴兵令を導入し、近代的な常備軍を最初に作ろうとしたのは大村益次郎であったが、彼が暗殺されてしまったため、山縣有朋に引き継がれた。明治3年、徴兵規則が作られ、翌年の明治4年に廃藩により兵部省が全国の軍事力を握ることとなり、明治5年には徴兵令が施行され、陸軍省と海軍省が設置される。こうして近代的な常備軍が創設された。
身分制度編集
江戸幕府下の武士・百姓・町人(いわゆる士農工商)の別を廃止し、「四民平等」を謳ったが形式的なものに留まった。しかし、明治4年に制定された戸籍法に基づき翌年に編纂された壬申戸籍では、旧武士階級を士族、それ以外を平民とし、旧公家・大名や一部僧侶などを新たに華族として特権的階級とすると同時に、宮内省の支配の下に置くことになった。
華族と士族には政府から家禄が与えられ、明治9年の秩禄処分まで支給された。同年、廃刀令が出され、これにより士族の特権はなくなり、のちの不平士族の反乱(佐賀の乱、萩の乱、秋月の乱、神風連の乱)につながる。しかしこれらの反乱はいずれもほどなくして鎮圧され、1877年に維新の元勲の一人である西郷隆盛が率いた最大の士族反乱であった西南戦争が鎮圧されると、士族による反乱は後を絶った。
経済産業編集
維新を進めるに当たり、大きな問題となったのが税収の確保であった。それまでの年貢は収量を基本とする物納であり、また各藩領において税率の不均衡があったことから、土地を基本とする新たな税制が構想された。1871年には田畑永代売買禁止令が廃止されて土地の売買が可能となり、さらに1874年に地租改正条例が布告されることで土地は私有となり、土地所有者に地券が発行されることとなって、所有する土地に対し地租が課せられることとなった。これにより、土地の所有権が初めて法的に認められたことによって土地の売買や担保化が容易になり、私有財産権が完全に確立することで資本主義の発展の基礎条件が成立した。
貿易分野では、1859年(安政6年)には横浜にすでに、イギリス帝国のジャーディン・マセソン商会支店の通称「英一番館」(ウィリアム・ケズウィック)が設置されており、1861年(万延2年)には長崎に、ジャーディン・マセソン商会代理店の「グラバー商会」が設立された。外国人居留地としては、1863年(文久3年)に横浜の山下居留地、1868年(明治元年)には神戸居留地と大阪の川口居留地、1869年(明治2年)には東京に築地居留地、1870年(明治3年)に長崎居留地が完成した。
富国強兵・殖産興業のスローガンの下、工部省(のちに内務省)やお雇い外国人が中心となり、政府主導の産業育成が始まる。1872年(明治5年)の富岡製糸場(ポール・ブリューナ協力)をはじめとする官営模範工場が作られるなど、西洋式工業技術が導入された。しかし西南戦争後の財政難のため、1880年には「官営工場払下概則」が制定され、造幣局や通信、軍事関係を除く官営工場や鉱山が民間に払い下げられていった。これによって民間の工業は大きく発展することとなり、1890年ごろから産業革命が進行し、工業化が進展していくこととなった。
金融分野では、旧幕府時代の貨幣制度を改めて、通貨単位として「円」導入を決定した。戊辰戦争が終わった1869年(明治2年)にオリエンタル・バンクと貨幣鋳造条約を締結したが、ほどなくプロイセン帝国と連合した北ドイツ連邦のドンドルフ・ナウマン社に乗り換えた[* 5]。1871年(明治4年)の新貨条例に基づき、 1872年(明治5年)にはドイツで印刷された明治通宝の流通が開始。また1874年(明治7年)の国立銀行条例により、国立銀行(ナショナルバンク)が設立。1874年(明治7年)にはドンドルフ・ナウマン社から紙幣原版を買い取り、紙幣を国産化。1878年(明治11年)5月には東京証券取引所の前身である東京株式取引所が、6月に大阪取引所の前身である大阪株式取引所が設立され、1880年(明治13年)には海外送金を受け持つ横浜正金銀行も設立。その後、通貨発行権を独占する中央銀行としての日本銀行設立(明治15年、1882年)など、資本主義的金融制度の整備も行われた。
国土分野では、旧幕府時代にすでに横浜製鉄所、横須賀製鉄所、長崎鎔鉄所が造営されており[12][13]、これを引き継いだ新政府の工部省は1871年(明治4年)、これらを横浜造船所、横須賀造船所、長崎造船局と改称して造船を開始し、また、前島密により郵便制度が創設された。1872年(明治5年)には新橋駅から横浜駅間において蒸気機関車による日本初の鉄道が開通し、また、皇居の前には東京で初めての西洋料理店でありホテルの築地精養軒が開業した。電信網の整備や船舶運輸(民間の郵便汽船三菱会社と国策会社の共同運輸会社の競合を経て日本郵船会社)などの整備も行われた。これらの資本活動には、職を失った代わりに秩禄を得た華族の資産による投資活動も背景にあった。1886年(明治19年)には払い下げの官営製鉄所を経営していた岩手県の釜石鉱山田中製鉄所が、日本で最初に高炉による製鉄を軌道に乗せた。水道は依然として上水井戸の水が飲料水・生活用水として使用されていたが、明治21(1888)年、政府は水道局の創設に向け具体的な調査設計を開始し、東京は1898(明治31年)年に神田・日本橋方面の通水が開始し、1911年(明治44年)には全面的に完成[14]。
エネルギー分野では、ガス事業の初めとしては1869年(明治2年)に、技師アンリ・プレグランが横浜瓦斯構想を作った。横浜のガス灯についてはドイツやイギリスの事業者からも出願があったが、高島嘉右衛門が建設を許可された[15]。また1871年(明治4年)には大阪府大阪市で機械燃料のガスを使用して工場や街路のガス灯が点灯された。1872年(明治5年)横浜で横浜瓦斯(プレグラン協力)が設立され[16]、東京電燈の前身会社が、馬車道のガス灯を十数基点灯させるデモンストレーションを行った。横浜には1884年(明治17年)、米国スタンダード・オイルの支社も設立。1885年(明治18年)は東京瓦斯も設立。1887年(明治20年)、東京電燈第二電灯局が完成し、日本初の商用火力発電所(出力25kW)となり、家庭配電(210V直流)が開始。同年、日本初の石炭火力発電所も、東京茅場町に建設。1888年(明治21年)には宮城県に水力発電所として初めて三居沢発電所が設立。
思想編集
幕末から活発になっていた佐久間象山などの「倫理を中核とする実学」から「物理を中核とする実学」への転回が行われ[17]、横井小楠の実学から物理を中核とする福澤諭吉の文明論への転回といった思想史の転換が行われた。これに民間の知識人やジャーナリズムが連動し、文明開化の動きが加速する。
明治新政府は国民生活と思想の近代化も進め、具体的には、福澤諭吉・森有礼・西周・西村茂樹・加藤弘之らによる明六社の結成と『明六雑誌』、福沢諭吉の『学問のすゝめ』や中村正直の『西国立志編』『自由之理』が刊行され、啓蒙活動が活発になった。また土佐藩の自由民権運動の動きと連動して中江兆民や植木枝盛、馬場辰猪といった革新的な勢力と、佐々木高行、元田永孚、井上毅、品川弥二郎といった官吏の保守的な勢力との対立が鮮明になってきた。
教育機関の整備では、初めは大学寮をモデルにした「学舎制」案を玉松操・平田鐵胤・矢野玄道・渡辺重石丸らの神道学者に命じて起草させたが、大久保利通や木戸孝允の意向の下、明治中期からは方針を変えて近代的な教育機関の整備が行われるようになり、幕末以来の蘭学塾や漢学塾、それに幕府自身が造った洋学教育機関である開成所や蕃書調所が直接の誘因となって、明治期の高等教育が出発した。
維新まで松前藩による支配下にあり開発の進んでいなかった北海道の開発にも明治政府は着手し、1869年にはそれまでの蝦夷地から北海道と改名し、同年開拓使が置かれて、積極的な開発が進められた。札幌農学校(現:北海道大学)や、三田育種所など、各種の学校や研究所が相次いで設置された。このように、ありとあらゆるインフラが整備されていった。
それまで江戸幕府や寺社が徹底していた女人禁制を、「近代国家にとって論外の差別(陋習)の一つである」として太政官布告第98号「神社仏閣女人結界ノ場所ヲ廃シ登山参詣随意トス」によりで禁止した。関所の廃止と合わせ、外国人女性でも自由に旅行できるようになったことから、各地に伝わる日本古来の神事が多数記録されることとなった。
宗教編集
宗教的には、祭政一致の古代に復す改革であったから、慶応3年(1867年)旧暦正月17日に制定された職制には神祇を七科の筆頭に置き、3月(旧暦)には神仏習合を廃する神仏分離令が布かれた。そして当時の復古的機運や特権的階級であった寺院から搾取を受けていると感じていた民衆によって、仏教も外来の宗教として激しく排斥する廃仏毀釈へと向かった。
また、キリスト教(耶蘇教)は、新政府によって引き続き厳禁された。キリスト教の指導者の総数140人は、萩(66人)、津和野(28人)、福山(20人)に分けて強制的に移住させた。
慶応4年4月21日、勅命により湊川神社に楠木正成を祭ったのをはじめとして、それまでは賊軍とされ、顧みられることが少なかった新田義貞、菊池武時、名和長年、北畠親房、北畠顕家ら南朝の忠臣を次々と祭っていった。また、明治元年閏4月には 明治天皇により、大阪裁判所(大阪府の前身)に豊臣秀吉を祀る「豊國神社」建立の御沙汰があり、1880年(明治13年)11月 には再建された京都・豊国神社の大阪別社が創建されるなど、江戸時代中に徳川政権によって公には逆賊とされていた豊臣家の再評価もなされるようになった。
明治2年(1869年)12月7日には、キリスト教信者約3,000人を、金沢以下10藩に分散移住させた。しかし、明治4年(1871年)旧11月、岩倉具視特命全権大使一行が欧米各国を歴訪した折、耶蘇教禁止令、殊に浦上四番崩れをはじめとする弾圧が、当時のアメリカ大統領ユリシーズ・S・グラント、イギリス女王ヴィクトリア、デンマーク王クリスチャン9世ら欧州各国から激しい非難を浴び、条約改正の交渉上障碍になるとの報告により、明治5年(1872年)に大蔵大輔の職にあった井上馨は、長崎府庁在任時に関わったことから、明治5年正月に教徒赦免の建議をした。
しかし、神道国教化政策との絡みや、キリスト教を解禁しても直ちに欧米が条約改正には応じないとする懐疑的な姿勢から来る、政府内の保守派の反対のみばかりでなく、主にキリシタン弾圧を利用して、神道との関係を改善させる思惑があった仏教をはじめとした宗教界や一般民衆からも「邪宗門」解禁に反対する声が強く紛糾したものの、明治6年(1873年)2月24日禁制の高札を除去し、その旨を各国に通告した。各藩に移住させられた教徒は帰村させ、ようやく終結した。
法律編集
法の支配実現のため、初代司法卿江藤新平が推進した司法制度整備により、いち早く、1872年に証書人、代書人、代言人が創設された。明治初期の日本は、不平等条約撤廃という外交上の目的もあり、民法、刑法、商法などの基本法典を整備し、近代国家としての体裁を整えることが急務であったことから、法学研究目的での海外留学を積極的に推し進めたほか、いわゆるお雇い外国人としてフランスの法学者ギュスターヴ・エミール・ボアソナードを起用するなどし、フランス法およびドイツ法を基礎に、日本特有の慣習や国情にも配慮しつつ、法典の整備を進めた。刑法は1880年(明治13年)に制定、2年後に施行され、民法は1896年(明治29年)に制定、1898年(明治31年)に施行された。日本は、アジアで初めて近代法の整備に成功した国となり、不平等条約の撤廃も実現したが、近年グローバル化の進展の中で、アジア各国が日本に法整備支援を求めていることには、このような歴史的背景があるともいわれている[18]。
文化編集
新時代「明治」の雰囲気が醸成されたことで、人力車や馬車、鉄道の開通、シルクハット・燕尾服・革靴・こうもり傘などの洋装やザンギリ頭、パン・牛乳・牛鍋・ビールなど洋食の流行、ガス灯の設置や煉瓦造りの西洋建築などが普及していった。
開国後に大量に入ってきた海外のモノ、概念を取り入れるために様々な和製漢語が作られていくことになる。
自由民権運動が次第に活発となり、徳富蘇峰が平民主義と欧化主義を唱え、民友社を設立し、『国民之友』を創刊し、それに対して三宅雪嶺は国粋保存主義を唱えて政教社を設立し『日本人』を発刊、志賀重昂らが参加した。陸羯南は日刊新聞『日本』で国民主義を唱え、近代俳句の祖である正岡子規らが記者を務めた。
この『日本』のような新聞が、徐々に様々な人々によって発刊されていくことになる。民間新聞の始めは幕末に創刊された浜田彦蔵の『海外新聞』であり、沼間守一の『横浜毎日新聞』、福地源一郎の『東京日日新聞』、栗本鋤雲の『郵便報知新聞』、末広重恭の『朝野新聞』などが続く。
教育編集
それまでは各藩ごとに独自の教育制度(藩校など)があったが地域差が大きかった。また寺子屋の数も不十分であり、庶民層が受けられる教育も異なっていたなど身分でも教育の偏りが一部存在していた。
明治政府では欧米諸国にならい印章を廃して署名の制度を導入しようと試みたが[19][20]、事務の繁雑さの他にも当時の識字率の低さを理由に反対意見が相次ぎ断念している。なお1899年時点でも20歳男子の識字率は76.6%という調査結果であった。
明治政府は日本を強国にするためには、西洋と同じく一般国民に対し全国一律の基礎教育を施す制度が必要との認識に立ち、義務教育が開始された。また欧米列強に比類する産業育成のためには高等教育や研究開発が必要となるため、大学も整備された。
1872年(明治5年)に学制が公布され、1886年(明治19年)には小学校令や帝国大学令が発布された結果、全国に尋常小学校や高等小学校、大学が設立され、徐々に一般民衆も高度な教育を受けられる環境が整った。
明治になると女子教育の必要性も叫ばれるようになった。特に海外渡航の経験があって、欧米の女子教育を目の当たりにした渋沢栄一や伊藤博文たちは、その必要性を痛感しており、彼らによって女子教育奨励会が設立された。同じく女子教育に理解のあった黒田清隆は、欧米に10年単位の長期間、留学生を海外に派遣する岩倉使節団に、女子留学生も加えさせた。この時の留学生、永井しげ、津田うめ(後に津田塾大学の関係者となる)、大山捨松は、日本の女子教育に大きな功績を残すこととなる。
1874年(明治7年)に女子師範学校が設立された。女子への教育は、老若男女を問わず、学問に対する批評が根強かったため、男子への教育に比べるとその歩みは遅々としていた。しかし、徐々に女性への教育の必要性は広く浸透していき、女子も義務教育、高等教育を受けられるようになっていった。
このような教育行政の強化により、1925年には20歳の非識字率は0.9%まで減少し、帝国大学からは一般庶民出身の官僚や学者が輩出された。
外交政策編集
新政府にとって、最大の目標は欧米列強に追いつくことであり、そのためにも旧幕府時代に締結された不平等条約の改正が急務とされた。上記の岩倉使節団は西欧諸制度の調査も目的であったが、条約改正のための下準備という面もあり、実際交渉も準備されたが、日本を近代国家と見なしていない欧米諸国からは相手にされず、時期尚早であった。そのため、欧化政策など日本が西洋と対等たらんとする様々な政策が行われたが、条約改正自体は半世紀に及ぶ不断の努力を必要とした(→条約改正)。
一方、不平等条約の失敗を鑑とした政府は、アジア諸国に対しては、平等以上の立場を確保することを旨とした。清との間には明治4年(1871年)対等条約である日清修好条規が締結される。明治7年(1874年)には台湾における宮古島民殺害事件をきっかけに台湾出兵が行われ、両国の間で台湾・沖縄の帰属が決定されることになった。
李氏朝鮮との間では国書受け入れを巡って紛争が起こり、明治6年(1873年)には政府を二分する論争(いわゆる征韓論)となったが、明治8年(1875年)に起きた江華島事件を契機として日朝修好条規(江華島条約)を締結し、朝鮮を自主国として認め、開国させるに至る。
琉球に対しては、明治5年(1872年)に琉球藩を設置し、明治12年(1879年)には琉球処分が行われる。
また、ロシア帝国との間では明治8年(1875年)に、千島樺太交換条約が締結され、それまで日露雑居地とされた樺太および千島列島における日露国境が確定した。
20世紀の近代化運動への影響編集
非ヨーロッパ地域における近代化改革の成功例編集
明治維新の諸改革は、新たな制度で生じた矛盾をいくらか孕みながらも、おおむね成功を収め、短期間で立憲制度を達成し、富国強兵が推進された。その評価は日清戦争・日露戦争における勝利により飛躍的に高まり、諸外国からも感嘆・驚異の目で見られるようになった。特にアジア諸国では明治維新を模範として改革や独立運動を行おうとする動きが盛んになる。孫文も日本亡命時には『明治維新は中国革命の第一歩であり、中国革命は明治維新の第二歩である』との言葉を犬養毅へ送っている[21]。
ロシアを含むアジアでの近代化革命としては、朝鮮における壬午事変・甲申政変や清における戊戌の変法やオスマン帝国におけるタンジマートの失敗、長続きしなかったイランのイラン立憲革命やロシア帝国のヴィッテ改革・ストルイピン改革などが典型である(朝鮮の改革運動については金玉均など、清の改革については光緒帝、黄遵憲なども参照)。しかしいずれも確実な成功を収めたものとまではいえなかった。
一定の成功を収めた例としては、パラグアイのカルロス・アントニオ・ロペス大統領による改革、タイのチャクリー改革、トルコのアタテュルク主義、エジプトのエジプト革命、メキシコのベニート・フアレス改革が挙げられる。
日本は明治維新によって列強と化したことにより、アジア諸国では数少ない植民地にならなかった国となった。明治維新は欧米列強に抑圧されたアジア諸国にとって近代化革命の模範ともなった。やがて日本自身が列強側の国家として、帝国主義的な領土・権益獲得を行う立場となったが、それが行使されたのは台湾や朝鮮、中国の一部という限られたものに終わり、イギリスやアメリカ、オランダなどのように本土から遠く離れた地を植民地支配下に置くようなことはなかった。
一方、ほとんどのアジア諸国で挫折ないし不可能だった近代化革命が、なぜ日本においてのみ成功したのかについても近年研究が盛んとなっている。孫文やスカルノ、マハティール・ビン・モハマドや毛沢東をはじめ、その他アジアの指導者はほぼ例外なく明治維新に何らかの関心を持っており、その歴史的価値についての問い直しが盛んとなっている。
エジプトとの比較論編集
エジプトの初代大統領ナセルは、『アラブ連合共和国国民憲章』の中で「エジプトがその眠りから醒めた時、近代日本は進歩に向かって歩み始めた。日本が着実な歩みを続けることに成功したのと対照的に、個人的な冒険によってエジプトの覚醒は妨げられ、悲しむべき弊害を伴った挫折がもたらされた」と記している[22]。
エジプトで失敗した近代化が日本で成功した理由について、明治の日本は教育制度が整っていた上に、「有司専制」などという批判もありつつも、議会や民権政党、マスコミなど政府批判勢力が常に存在して行政のチェック機能が働いていたのに対し、エジプトにはこれがなかったため、君主が個人的な私情や私欲に突き進みやすかったことがあるという。明治政府は外債に慎重で返済能力を越えない現実的な範囲に留めてきたが、エジプトは君主の独走で計算もなく法外な利息の外債に頼り続け、その結果、財政破綻と植民地化を招いたことが指摘されている[22]。
一方エジプト革命から半世紀以上前にオラービー革命を起こしたアフマド・オラービーは、近代化改革が日本で成功した理由について、日本の地理的条件の良さが背景にあると分析していたという。具体的には幕末から明治初期の日本は生糸しか主要産業がなく、イギリスやフランスにとっての日本の価値は大市場である清の付属品、あるいは太平洋進出のための薪炭・水の補給地でしかなく、スエズ運河を有するエジプトに比べて重要度が低かったことがあるという[23]。
評価編集
明治の維新論編集
明治時代には、福沢諭吉が『文明論之概略』(明治8年、1875年)において、幕末から明治の改革を「王政一新」と呼び、尊王や攘夷が幕藩体制を倒したという俗論を批判し、江戸幕府下における「門閥」を基盤とした「専制の暴政」に対する人々の不満が内実にあったからこそ、単に政権が交替するだけではなく、武士身分の解体としての廃藩置県まで到達したとして、人々の智徳(知識と道徳)の進歩によって歴史が動いたと評した[24]。竹越与三郎が明治24年から『新日本史』を刊行し、明治維新を評価した[25]。他、徳富蘇峰も『近世日本国民史』時事通信社で明治維新を論じた。
戦前期の維新論編集
昭和期の代表的な維新論として、日本資本主義論争がある[26]。日本共産党の活動方針を巡って講座派と労農派はそれぞれ二段階革命論、一段階革命論を唱えた。労農派は明治維新により日本は資本主義段階に突入したと考え、マルクス主義の唯物史観の公式通りただちに社会主義革命を目指すべきだと主張したのに対して、講座派は明治維新は不完全な民主主義革命であり、日本は未だ半封建的な段階にあるとし、まずブルジョワ民主主義革命を目指し、その先に社会主義革命はあるという二段階革命論を主張した。山田盛太郎の理論のもと、『日本資本主義発達史講座』(岩波書店)により、野呂栄太郎、服部之総、羽仁五郎らは活発に議論を交わしたが、特別高等警察による野呂栄太郎の拷問死、コム・アカデミー事件での一斉検挙により壊滅した。
戦後から現在に至る維新研究編集
終戦後講座派は復活し、羽仁五郎は『明治維新』(岩波新書)、『明治維新之研究』(岩波書店)を刊行した。その後、マルクス主義歴史学の立場から、長州藩を維新の主体の典型とみなした上で明治維新を天皇制絶対主義の成立とみなす遠山茂樹『明治維新』(1951年、岩波書店)が主流の地位を占めた[27]。田中彰『明治維新政治史研究』(1963年)も標準的な研究となった[27]。マリウス・バーサス・ジャンセンは『坂本龍馬と明治維新』(1961年)で坂本龍馬が果たした役割を取り上げ、小説家の司馬遼太郎に大きな影響を与えた。
長州藩を維新の主体の典型とみなす見方に対して、公武合体派の薩摩藩を重視する毛利敏彦『明治維新政治史序説』(1967年)も登場した[27]。しかし、これらの研究は実証研究の進展によって史実との乖離が指摘され、倒幕派に敗れた東北諸藩、倒幕派でも佐幕派でもない中間的な立場の諸藩の役割が軽視していると批判された[27]。
維新政権の研究は原口清「戊辰戦争」(1963)や下山三郎「近代天皇制研究序説」(1976)によって本格的に着手された[27]。宮地正人は、幕府、朝廷、諸藩の動向を総体的に捉えようとして幕末過渡期国家論を提唱し、それまで見落とされていた天皇、朝廷の動向を視野に入れ、斬新的な研究となった[28][27]。これに続いて、原口清は国是(最高国家意志)樹立をめぐる諸勢力の運動・対立という視座を設定し、慶応3年の五箇条誓文を国是樹立運動の帰結とした[29][27]。宮地や原口のダイナミックな関係史の研究によって、長州藩と会津藩のように政治状況によって「勝者」「敗者」が刻々と変わるなか、当時の政治家の個性が描き出されるようになり、その後の研究潮流の源流となった[27]。
明治維新では幕府が廃止されると同時に摂関制度も廃止され、天皇や朝廷の研究も重要であるが、戦前には皇国史観でタブー視され、戦後も戦前への忌避感から研究が遅れていた[27]。井上勝生[30]や藤田覚[31]の研究によって、文久3年の八月十八日の政変の主役を孝明天皇とする見解などが提出され、武家に操られる天皇というイメージが一新され、以後の幕末維新期の天皇研究に大きな影響を与えた[27]。
また、一橋徳川家の徳川慶喜、京都守護職・会津藩主の松平容保、京都所司代・桑名藩主松平定敬の三者により構成された一会桑勢力が重視され、従来の「幕府対薩長」という単純な図式に大きな変化がもたらされた[27]。家近良樹の「幕末政治と倒幕運動」(1995)では、それまで「敗者」として悲劇的に捉えられがちだった会津藩の存在を高く評価した[27]。宮地正人は、歴史ファンやマニアの研究対象出会った新選組が一会桑との役割から研究した[32][27]。この他、久住真也「長州戦争と徳川将軍」(2005)では幕府の新仏派の研究も行われた[27]。
開国研究としては、三谷博「ペリー来航」(2003)や荒野泰典「日本の対外関係7 近代化する日本」(2012)などで従来の「不平等条約」「鎖国」「開国」の見直しを再評価がなされている[27]。
高橋秀直[33]や、家近良樹の研究[34]では、王政復古クーデタは倒幕を目指していなかったことが明らかにされ、また王政復古で成立した新政府は、天皇より公議原理が優位にたつ(天皇親政ではない)政府であったことが明らかにされた[27]。三谷博も「維新史再考」(2017)で公議研究を進めた[27]。
明治維新150周年を記念して2017年から2018年にかけて多くの研究書や一般書が上梓された。歴史学者の著作としては、三谷博『維新史再考』、三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』、北岡伸一『明治維新の意味』(2020年)などがある。ジャーナリストの斎藤貴男は、政府主導の明治維新記念行事は、時の政府礼賛に繋げようとしているのではないかと疑念を表明している[35]。
日本思想史研究の苅部直は『「維新革命」への道』において、マルクス主義歴史学の遠山茂樹などのような、明治維新による文明開化を政府が上から強引に西洋化を進め、庶民にとっては迷惑であったとするような評価は、事態の一部しか捉えていないと批判し、公儀の瓦解と新政府の発足は、人々にとって生活全体に及ぶ束縛からの解放と感じられ、また西洋化もその動きの一環として歓迎されたと述べている[36]。苅部によれば、人民の側に立つ歴史学を標榜する遠山茂樹は、庶民が文明開化を求め、楽しんだ実態には触れようとしないが、それは、遠山が戦時中の1944年の論文「水戸学の性格」で、孝明天皇による「仁慈限りなき御叡慮」による幕藩封建体制の改革で、「一君万民の我が国体の精華」が「革新力」となると論じたことへの苦い反省があったのではないかと指摘している[37]。また、文明開花以前の古い日本に憧れるロマンティシズムや、薩長の暴虐を強調する幕臣びいき・江戸っ子びいきの歴史観も、遠山と同様に、民衆に共感することを標榜しながらも、当時の民衆が文明開花を楽しみ、欲望の発散の機会が多くなることを願ったという実態について書かないような「民衆不在」の罠にはまっていると苅部は批判する[37]。
子安宣邦『「維新」的近代の幻想』(2020年)は明治維新に端を発する日本近代のあり方を批判している。
東京大学名誉教授の三谷博は、比較革命史で見ると明治維新による犠牲者は極めて少なく、その要因に、「公論」による政治の決定や、長期的危機を予測し、その対応に成功したことなどが挙げられるという[38]。
関連作品編集
- 歴史小説・歴史評論
- 司馬遼太郎『竜馬がゆく』歴史小説
- 専門的な歴史学以外では、薩長土肥中心に語られてきた明治維新を批判する立場として、会津藩や奥羽越列藩同盟など敗者の側に注目する見方として、ジャーナリストの石光真人編 『ある明治人の記録-会津人柴五郎の遺書』(1974年, 改版2017年)や、近年では歴史作家の星亮一の著作や、歴史作家・歴史評論家の原田伊織『明治維新という過ち』(2015年)などがある。
- 元学生運動家で科学史家の山本義隆『近代日本150年』(2018年)で「科学技術総力戦」に突き動かされる日本社会という角度から日本の近代を論じている。
- ドラマ
脚注編集
注釈編集
出典編集
- ^ 『歴史学事典 12王と国家』(弘文堂、2005年 ISBN 4335210434)「維新政権」(松尾正人)より。
- ^ “明治維新は英語で何と言う?日本の「高校・世界史」を丸ごと英訳(週刊現代) @gendai_biz”. 現代ビジネス. 2019年6月8日閲覧。
- ^ Edited Miguel Urrutia and Nagai Michio,Meiji Ishin: Restoration and Revolution,ISBN-10: 9280805339,United Nations University Press,June 1985,“Meiji Ishin: Restoration and Revolution - United Nations University” (英語). unu.edu. 2019年6月8日閲覧。(永井道雄、M.ウルティア共編、明治維新、国際連合大学 1986)
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- ^ 家近良樹「徳川慶喜」2004など
- ^ 『明治礼賛の正体』2018年、岩波ブックレット
- ^ 苅部直『「維新革命」への道』新潮選書 2017年,p28-30.p256
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参考文献編集
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- 井上勝生「幕末政治史のなかの天皇」講座前近代の天皇2、1993.青木書店
- 久住真也「第一章 維新史研究」、小林和幸編「明治史研究の最前線」2020-01-15,筑摩選書、pp15-36.
- 桑原武夫ほか『明治維新と近代化』小学館創造選書
- 坂井洋子ほか『幕末維新史辞典』新人物往来社
- 高橋秀直「幕末維新の政治と天皇」(2007、吉川弘文館)
- 遠山茂樹『明治維新』(1951年、岩波書店)
- 田中彰『明治維新政治史研究』(1963年)
- 原口清「戊辰戦争」(1963)
- 原口清「近代天皇制成立の政治的背景」(遠山茂樹編「近代天皇制の成立」1987、岩波書店)
- 原田供彦『改革と維新』講談社現代新書
- 藤田覚「幕末の天皇」1994
- 三谷博「ペリー来航」(2003)
- 三谷博『維新史再考 公議・王政から集権・脱身分化へ』NHK出版〈NHKブックス 1248〉、2017年12月
- 宮地正人「幕末過渡期国家論」(講座日本近世史8、1981)
- 毛利敏彦『明治維新政治史序説』(1967年)
- 世界史
- 山口直彦『新版 エジプト近現代史 ムハンマド・アリー朝成立からムバーラク政権崩壊まで』明石書店〈世界歴史叢書〉、2011年(平成23年)。ISBN 978-4750334707。
関連項目編集
外部リンク編集
- 幕末・明治初頭の新聞・雑誌
- ハイビジョン特集 世界から見たニッポン - NHK放送史(日本放送協会)
- 渡辺雅司「土着的革命としての明治維新 : メーチコフの日本観の先駆性」『総合文化研究』 2009年 12号 p.6-29, 東京外国語大学総合文化研究所
- 『明治維新』 - コトバンク