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山陽道 - Wikipedia

山陽

畿七一つ本州西部瀬戸内海行政区分

山陽さんようどうかげみち畿七一つある 本州西部瀬戸内海行政区分および同所通る幹線道路古代から中世指す 行政区分としてかげともみちまたは中国ちゅうごく称さ[1]

街道において江戸時代中心

  • 西国街道さいごくかいどういこくかいどうせいごくかいどうせいこくかいどう
  • 西国さいごくどうさいこくどうせいごくどうせいこくどう
  • 西国さいくじさいこくじせいごくじせいこくじ
  • 中国街道ちゅうごくかいどう
  • 中国ゅうごくじ
  • 山陽さんようじ

など呼ば[2]

行政区画として山陽編集

一覧 > 山陽
山陽

律令規定行政区画当時畿七称さよう中央地方ある七道から成っ山陽その畿七一つ本州瀬戸内海指しおり畿内西位置現在兵庫西部から山口まで至る瀬戸内海沿岸総称なおこれ統括する役所原則存在おら基本区画示すものあっ

変遷編集

山陽変遷
名称変更限るもの移動に関して記載ない
古代
前身
 
 
大宝律令制定
701
 
 
824-明治
 
 
明治時代
 
 
現在都道府県
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
播磨
7世紀-
 
 
 
 
 
 
播磨
 
 
 
播磨
 
 
兵庫南西
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
針間
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
明石
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
美作
713-
 
 
美作
 
 
 
美作
 
 
岡山東北兵庫一部
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
備前
689-
 
 
 
 
 
 
 
備前
 
 
 
備前
 
 
岡山南部香川小豆島直島諸島兵庫一部
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
吉備[ 1]
 
 
 
 
 
中国
689-
 
 
 
 
 
 
中国
 
 
 
中国
 
 
岡山西部
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
備後
689-
 
 
 
 
 
 
備後
 
 
 
備後
 
 
広島東部
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
阿岐
 
 
 
 
安芸
7世紀-
 
 
 
 
 
 
安芸
 
 
 
安芸
 
 
広島西部
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
沼田
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
周防
 
 
 
 
周防
7世紀-
 
 
 
 
 
 
周防
 
 
 
周防
 
 
山口南西
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
島国
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
久岐
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
長門
 
 
 
 
 
 
長門
 
 
 
長門
 
 
山口西部
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
阿武
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

みちとして山陽編集

山陽時代背景により以下よう区分称される場合ある

古代山陽編集

広島府中府中山陽発掘作業

概要編集

古代山陽大和朝廷九州太宰府結ぶ幹線として最も重要畿内起点放射状延びる七道駅路大路中路小路なか唯一大路あっ[3]

古代日本太陽出没方向因ん東西それ直行する南北方向ひよこ呼んそして山稜斜面上古中古中国語かげとも斜面上古中古中国語背面そと呼び共にある本州西部南岸街道する山陽本州西部北岸街道背面する山陰呼ぶようなっれる

大同2807まで播磨以西山陽51駅家あり距離13程度それぞれ25置かこの以降新任国司赴任海路使うようなるなど駅路利用衰微いっ

延喜927編纂駅路七道ごと駅名記載おりこれ当時駅路大まか復元することできる延喜兵部諸国駅伝による駅家駅路関係史料から山城山崎から筑前まで58数えこと伺えるなお奈良時代平城京から木津川沿い北上河内交野枚方交野楠葉淀川対岸摂津島上高槻島本大原経由する路線あっその後平安時代平安京から南下山城乙訓大山崎長岡京山崎から高槻西向かう路線なっようある

古代山陽場合原則30当時540メートル3016キロメートルごと駅家うま設け[3]道幅6 - 9メートルその行程直線短絡するよう計画おり各国国府効率良く結ん本道から外れ美作播磨から西北分岐道路美作伸び

山陽重視外交使節入京当たっから駅家瓦葺き白壁ので天平元年729そのため財政措置行わ

当初この陸上交通によって地方ある国司往復地域からある調運ぶすること原則しかし大量物資輸送する水運利用する効率あり次第に瀬戸内海経由する水運比重高まっいっやがて律令制納税軍制形骸呼応するよう駅伝急速衰退みせ10世紀後期または11世紀初頭名実駅伝駅路廃絶

実際古代山陽路線発掘調査において確認事例極めて少なく高槻(ぐんげ)川西遺跡8メートル岡山備中国分尼寺7メートル兵庫たつ小犬丸(こいまる)遺跡上郡落地(おろち)遺跡など留まる広島府中発掘調査市内3か所古代山陽遺構出土道幅10メートルあっこと[4]600メートル離れ備後国府分岐確認いる[5]

駅家一覧編集

以下について国名駅名設置備考数等古代山陽想定推定関連情報列挙する

高月駅推定岡山赤磐
  • 備前4
  • 備中4
  • 備後5延喜3なっいる
  • 安芸13
    • しん沼田 20 三原市
    • 梨葉なし沼田 20 三原本郷
    • つう沼田 20倭名類聚沼田として沼田舩木安直
    • 鹿かむつき沼田 20
    • 木綿ゆう賀茂 20 東広島西条地区
    • 大山賀茂 20 東広島八本松地区
    • 荒山安芸 20 広島安芸中野東地区
    • 安芸安芸 20 安芸府中城ケ丘 岡田遺跡
    • 佐伯 20 広島安佐南地区
    • 大町佐伯 20 広島佐伯利松地区周辺
    • へら佐伯 20 廿日市下平良地区
    • おの佐伯 20 廿日市大野高畑地区万葉集たかうま
    • くだ佐伯 20 大竹
  • 周防81
    • いわく玖珂 20 山口岩国関戸付近
    • 野口玖珂 20 岩国玖珂野口
    • 周防小周防熊毛熊毛高水勝間付近諸説 20
    • いく都濃 20 生野屋野郷
    • 平野都濃 20 新南陽西部平野郷存在
    • 大前おおさき889廃止 防府
    • 勝間かつ佐波 20 防府勝間
    • 吉敷 20 山口鋳銭司矢地
    • 吉敷 20 山口嘉川とも山口賀川
  • 長門5
    • たみ厚狭 20 宇部吉見 
    • 厚狭厚狭 20 山陽小野田
    • 埴生はぶ厚狭 20 山陽小野田埴生
    • たか豊浦 20室賀下関小月
    • りんもん豊浦 20外国賓客接待する役割兼ねおり日本書紀臨海記載あり下関前田付近

太宰府

 

中世山陽編集

鎌倉時代計画国家整備道路として駅路存在なくなっものの陸上移動交通まったく廃絶する無くその後地域連絡として機能ある程度保たれることなっそして代わるものとして宿駅呼ばれる交通要地あっ宿泊ため設備輸送携わる人馬有し集落発達これら江戸時代にかけて宿場として発展もの多いこの時期山陽幕府出先機関ある鎮西探題ある博多京都守護のち探題置か京都結ぶ交通要路幕府緊急連絡早馬使用[20]

山陽交通注目2襲来とき最初1274とき早馬による襲来一報博多京都9要しその他飛脚による通報16前後要しいる[20]これ古代律令時代[注釈 1]による通報比較格段遅い通信あっ[20]2度目弘安1281博多京都67通報要しことからから弘安まで中世交通研究ある新城常三鎌倉幕府逓送制度何らかの改善なさもの推測おり道路文化研究工学博士武部健一襲来山陽整備改善寄与する契機なっいる指摘いる[20]

山陽において次第に従来極端直線志向廃れより整備簡便自然地形利用する経路路線変更なさようあるすなわち災害から復旧含め迂回河川渡河地点変更有力集落連絡重視など理由なり路線付け替え各所行わ沖積平野出現による海岸後退手伝い全体として次第に瀬戸内海海岸沿い経路志向れることなっ

この変遷概略として従前から平地連絡多かっ摂津播磨古代近辺その路線見いだすできうるかいそれでもまったく同一場所整備続けられることなく例えば姫路付近南側断層利用する小幅変更なさいるさらに備前連絡上郡過ぎ坂長備前吉永和気珂磨赤磐松木高月赤磐馬屋路線あっもの備前片上備前岡山一日岡山藤井大きく変更旭川渡り備中続く

備中小田川沿い平地最も妥当選択あっので基本この路線踏襲いるそして現在国道313高梁井原:美作からあるいは高梁川沿い遡る連絡可能いわゆる宿駅整備街道備中往来として利用ようある

しかし備後福山北部府中駅家付近安芸三原北西高坂本郷経路から芦田川沿うとり尾道方面経由する変更行わいるまた安芸避けられない宿命あるものの路線変更繰り返さおり府中手前短絡緩和沿岸 海田経由する路線安芸山陽なっただ通過する路線全く変更言う備前備後最も大きなものない思われる

さらに室町時代後期なる道路整備地方領主移りいわゆる城下町形成手段用いられるなどいるためいわゆる東西短絡性格から外れることなる場合あっ岡山など

近世山陽編集

江戸時代いわゆる街道整備れることなっこの街において領内あっ江戸幕府道中奉行支配するなど再び中央地方連絡国家整備言える街道宿場指定人馬継立行う問屋場大名宿舎として本陣脇本そして武士一般庶民など宿舎あっ旅籠など整備かつて一級幹線として扱わ山陽街道連結する街道扱い格下げ[3]

明治時代以降編集

明治政府国道番号付け管理する制度採っ江戸時代まで山陽明治時代東京神戸結ぶ国道32から京都分岐および東京長崎結ぶ国道4一部なり大正時代東京鹿児島結ぶ国道21から三重分岐一部なっ

現在山陽機能大阪北九州門司結ぶ国道2引き継がいるしかし律令時代江戸時代山陽異なる道筋部分多いあげる岡山岡山 - 広島福山にかけて国道2かつて山陽踏襲おら大幅異なるルートある鴨方往来街道併走するこれ国道整備において主要都市なっ岡山福山本来東西短絡性格道路敷設ためない推測れる なおこのため岡山広島東部かつて山陽小田川沿いそれ並行する道路山陽呼ぶ一般なっいるさらに山陽呼ん場合山陽自動車道こと一般示しいる

鉄道山陽本線山陽新幹線高速道路山陽自動車道古来山陽たどるよう敷設いる場合ある現代において近畿地方九州結ぶ機能律令時代から維持続けいる

脚注編集

[脚注使い方]

脚注編集

  1. ^ 早馬最も早い連絡便こと

出典編集

  1. ^ Yahoo!辞書 - 大辞林 2019531サービス終了
  2. ^ 松村監修大辞泉小学館1998
  3. ^ a b c 浅井 2001, p. 87.
  4. ^ 備後ふちゅう かわら版 2017112 中国新聞備後府中販売
  5. ^ 広報 ふちゅう 2016711214 府中人事秘書編集発行
  6. ^ 延喜兵部
  7. ^ 兵庫県立考古博物館. 古代に関する調査研究 (日本語). 兵庫県立 考古博物館. 20211031閲覧
  8. ^ 延喜兵部
  9. ^ 兵庫県立考古博物館. 古代に関する調査研究 (日本語). 兵庫県立 考古博物館. 20211031閲覧
  10. ^ 延喜兵部
  11. ^ 延喜兵部
  12. ^ 兵庫県立考古博物館. 古代に関する調査研究 (日本語). 兵庫県立 考古博物館. 20211031閲覧
  13. ^ 延喜兵部
  14. ^ 龍野小犬丸遺跡. sitereports.nabunken.go.jp. 20211031閲覧
  15. ^ 延喜兵部
  16. ^ 兵庫県立考古博物館. 古代に関する調査研究 (日本語). 兵庫県立 考古博物館. 20211031閲覧
  17. ^ 延喜兵部
  18. ^ 延喜兵部
  19. ^ 延喜兵部
  20. ^ a b c d 武部 2015, pp. 9192.

参考文献編集

  • 浅井建爾道と路がわかる辞典日本実業出版社2001年11月10日初版ISBN 4-534-03315-X
  • 武部健一道路日本中央公論中公新書2015525ISBN 978-4-12-102321-6

関連項目編集

外部リンク編集

  • 古道歴史散歩公益財団法人広島文化財団文化科学文化財 - 広島山陽西国街道および雲石街道街道調査