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大坂城 - Wikipedia

坂城大阪城おおかじょう[注釈 1]安土桃山時代上町台地先端摂津東成生玉築か江戸時代再築日本別称錦城きんじょ金城とも表記大阪城跡として特別史跡指定いるなお城址含む一帯大阪城公園おおかじょうこうえんとして整備いる天守博物館大阪城天守閣なっいる

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大阪城公園
大阪
Osaka Castle 02bs3200.jpg
別名 錦城金城
坂城/大阪城
城郭構造 輪郭平城または平山
天守構造 複合もしくは連結望楼56地下21585
独立55地下11626
いずれ現存
独立望楼581931復興SRC
城主 豊臣秀吉
築城 1583天正11
改修 徳川秀忠
城主 豊臣奥平徳川
1868明治元年
遺構 石垣
指定文化財 重要文化財など
特別史跡
登録文化財 登録有形文化財復興模擬天守
建造 天守
位置
北緯344114.56 東経1353133.04 / 北緯34.6873778 東経135.5258444 / 34.6873778; 135.5258444 (坂城)座標: 北緯344114.56 東経1353133.04 / 北緯34.6873778 東経135.5258444 / 34.6873778; 135.5258444 (坂城)
地図
大阪城の位置(大阪市内)
大阪城
大阪城
大阪城の位置(大阪府内)
大阪城
大阪城
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概要編集

復興天守

太閤はん親しみ込め呼ばれることある1583天正11から1598慶長3にかけて豊臣秀吉築い坂城豊臣坂城遺構現在ほとんど埋没いる現在地見ることできる坂城遺構1620元和6から1629寛永6にかけて徳川秀忠実質新築相当する修築施し坂城徳川坂城遺構ある1959昭和34大阪城総合学術調査において城跡現存する石垣などすべて徳川江戸幕府によるものあること確定いる

坂城上町台地北端位置する文献よる日本名城一つ数えられる場合ある二つ名古屋姫路城熊本から挙げられる場合多い

現在江戸時代初期から後期にかけて建てられなど建物13および内堀外堀現存城跡710,000平方メートル範囲特別史跡指定いる[1]天守1931昭和6鉄骨鉄筋コンクリート (SRC) 構造徳川時代再建天守石垣資料乏しい豊臣時代天守閣想像大坂屏風など参考模擬復元創作ある90近い現在それそれ登録有形文化財なっおり博物館大阪城天守閣として営業いるちなみにおおさかじょう表記についてある近代以降大阪表記するよう改まっため現在大阪城表記すること多いなお大阪城大阪町名なっいる

歴史沿革編集

前史編集

かつてこのすぐ台地淀川本流流れる天然要害ありまたこの淀川上る京都繋がる交通要衝でもあっ元々古墳時代古墳あっ言わ戦国時代末期から安土桃山時代初期石山本願寺あっ1580天正8石山合戦講和直後火災焼失この石山大坂西日本押さえる優れため信長よる信長この立地高く評価跡地さらに大きな築く予定あっ[2]石山合戦終結同地織田信長命令丹羽長秀預けられ四国攻め準備津田布陣一時野戦布陣なく矢倉など建物あっ細川忠興軍功ことから一軍長期駐屯できるほど設備構築推測れる [注釈 2]本能寺発生丹羽長秀討たその後清洲会議池田与えられるただちに美濃国替えなっため秀吉領有なっ

豊臣政権編集

1583天正11から羽柴豊臣秀吉によって築城開始羽柴豊臣本拠地なっ

一般坂城豊臣政権本拠地解される実際1585天正13秀吉関白られ86天正14関白として政庁居館として京都聚楽第建設翌年九州征伐から帰還ここ移り住み更に関白退い京都南郊伏見築城死ぬまで伏見において政務執っ

江戸時代編集

1598慶長3豊臣秀吉死去1600慶長5関ヶ原戦い石田三成西敗れ結果徳川家康によって恩賞というその所領分配ため220大名から657400大名転落豊臣あっ遺児豊臣秀頼依然として豪華絢爛たる坂城居城しかし1614慶長19徳川幕府盤石後顧憂い無くしたい家康策謀により勃発大坂において講和条件として大坂三の丸二の丸取り決められ大坂内堀本丸のみ残すしまう秀頼再建試みため講和条件破棄みなさから4か月1615慶長20大坂坂城ついに落城豊臣滅亡

落城坂城初め家康外孫松平忠明与えられ忠明課せられ任務大坂城下復興ありそのものあまり加えられることなかっ1619元和5忠明大和郡山なり江戸幕府大坂廃止幕府直轄天領する1620元和6から2将軍徳川秀忠によって豊臣払拭する [注釈 3]坂城再築工事開始坂城再築工事西国大名中心1620元和6から工事47大名動員西の丸二の丸北部東部三の丸1624元和10から工事58大名動員本丸一帯1628寛永5から工事57大名動員二の丸南部実に3足かけ9にわたる普請によって1629寛永6完成

豊臣大坂屏風描か大坂城下賑わい

幕府直轄ある徳川坂城城主徳川将軍家歴代将軍自身あり譜代大名から選ばれる大坂城代預かり近畿地方および西日本支配拠点なっ大坂城代補佐する定番2京橋定番玉造定番譜代大名から選ば旗本編制幕府常備ある大番2東大西大番加勢する4山里中小屋青屋雁木大名から選ばなお大番1交代だっ城代江戸時代を通じて70就任いる本来城主ある将軍家光家茂慶喜3のみ坂城入城いる

江戸時代落雷による損傷修復繰り返し度目16607253618城内青屋近くあっ土蔵造り硝蔵火薬落雷爆発起き貯蔵2198560082.4t黒色火薬ほか431079火縄36640焼失[3]爆発威力すさまじく城内29死亡およそ130負傷天守御殿など多数建造損壊3死亡家屋1481倒壊多数家屋屋根破損また青屋から14km離れまで飛ばさ記録板倉常行ある[4]幕府現存する石造り硝蔵建造度目1665寛文5正月2落雷天守北側受け天守焼失天守39短命だっ本丸三重11以降200にわたり残存度目1783天明31011大手多聞落雷直撃全焼幕府財政難ため再建18452から町人用金による修復まで待つことなっ

江戸末期慶応3129186813発せられ王政復古号令二条城から追わ将軍徳川慶喜坂城移り居城慶応4131868127幕府鳥羽伏見戦い敗北によって慶喜江戸退却大坂政府開け渡さこの前後混乱うち出火本丸御殿本丸三重11など本丸すべて山里曲輪極楽橋二の丸太鼓など城内建造ほとんど焼失

近代編集

明治政府城内敷地陸軍用地転用東側国鉄城東線現在大阪環状線まで広大敷地火砲車両など兵器生産する大阪砲兵工廠大阪陸軍造兵設けられこのため太平洋戦争爆撃目標なっ

  • 1870明治3陸軍午砲設置業務開始
  • 1885明治18和歌山二の丸より御殿一部移築紀州御殿命名れる紀州御殿大阪鎮台4師団司令庁舎として利用
  • 1887明治20以前比定いる大坂名古屋鎮台写真宮内庁玉造高麗西の丸仕切複数番所写さいる
  • 1888明治21大阪鎮台によって本丸復元
  • 1895明治28天守東側大手配水建設地中配水設置れる
  • 大正時代周辺公園整備計画持ち上がる[5]
  • 1928昭和3当時大阪市長關一天守再建含む大阪城公園整備事業提案昭和天皇即位記念事業として整備進められ[6][7]集められ市民募金150によって陸軍4師団司令庁舎[注釈 4]復興天守建設進められ天守閣基本設計波江悌夫行い再建工事1930昭和5始まり翌年完成このまで八角西の丸残っ考えられる
  • 1931昭和6復興天守博物館天守閣郷土歴史として竣工する4師団司令庁舎竣工大阪城公園開園
  • 1933昭和8紀州御殿てんりんかく改称
  • 1937昭和12113陸軍命令防諜ため天守閣カメラ持ち込み禁止する
  • 1940昭和15128展望始めとして各階全て塞がれる
  • 1942昭和17925天守立ち入り次いで城内一般人立ち入り禁止れる
  • 1943昭和18天守中部防空情報35航空情報司令桝形西側入る
  • 1945昭和208148大阪大空襲大きな被害受けるこの終戦前日行わ空襲大阪城東側広がっいる大阪砲兵工廠集中狙わ周辺1トン爆弾多数投下いる近隣京橋その巻き添えなり避難乗客500死亡する惨事起きいる大阪城1868慶応4火災被害免れ伏見京橋京橋多聞焼失青屋甚大被害受けいるこのとき毎日新聞大阪本社屋上から撮影天守閣背景濛々上がる光景大阪など呼ば[8]天守閣に関して天守損傷ものの破壊免れこのほか一心寺移築豊臣時代三の丸玉造長屋形式黒門焼失いる

現代編集

終戦城内陸軍用地占領接収復興天守現在健在あり大阪象徴としてそびえ立ち周囲大阪城公園整備いる

  • 1947昭和229占領失火により紀州御殿焼失
  • 1948昭和23825接収解除れるその後建物修理進められ大阪城公園整備始まり外堀含む広域公園なっ
  • 1949昭和24天守博物館再開れる
  • 1950昭和25ジェーン台風によりまたもや大きな損傷受け
  • 1953昭和28から傷ん空襲崩れ石垣など本格補修事業開始併せ学術調査行わ始め331大坂城跡史跡指定れる611大手門など建造13重要文化財指定れる
  • 1955昭和30 624大坂城跡特別史跡指定れる
  • 1959昭和34ボーリング調査結果地下9.3m位置から石垣思われる花崗岩確認その地点中心3m四方範囲掘り下げところ地下7.3m位置4m以上石垣発見その翌年発見豊臣坂城本丸照合によりこれ豊臣時代遺構あること確認[9]本丸司令庁舎施設一時大阪府警本部庁舎大阪市立博物館として使用石垣囲ま東外堀南端拳銃射撃訓練行わ大阪府警射撃玉造土橋東側現存大阪陸軍造兵長らく放置残さ大量狙うアパッチ跳梁小松左京開高小説舞台ともなっ
  • 1981昭和56保存運動文化庁調査指示あっかかわらそれら無視大阪大阪陸軍造兵本館取り壊し
  • 1983昭和58大阪築城400まつり合わせ国鉄大阪環状線大阪城公園新設大阪陸軍造兵本館跡地大阪城ホール開館弁天島含む一帯次々企業ビル建ち並び大阪ビジネスパーク完成
  • 1995平成712から1997平成93まで天守平成改修行わ
  • 1997平成99天守登録有形文化財登録
  • 1996平成8太鼓石垣修復さらに大阪陸軍造兵敷地拡張ため大正初期陸軍によって埋められ東外堀事業25かけ3がかり復元れる青屋南部玉造東部復元
  • 2001平成13331大阪市立博物館閉館41大阪歴史博物館開館する
  • 2006平成1846日本100名城54選定
  • 2007平成19大阪城不動産登記に関して建物として登記あり登記土地所有陸軍あるということ判明実務建物所有大阪[10]あり土地から借用あるということなっいる[11]
  • 2014平成26大阪大阪城公園大阪城天守閣博物館ほか施設指定管理として大阪城パークマネジメント共同事業代表 株式会社 電通 関西支社当時選定指定期間20154から20353まである[12][13]重要文化財大坂屏風通称黒田屏風大阪城天守閣所蔵ある
  • 2015平成279多門など期間限定公開[14]
  • 2016平成281から年間多聞硝蔵特別公開[15]
  • 2017平成29918天守閣入館1突破1019大阪市立博物館改修複合施設MIRAIZA OSAKA-JOミライザ大阪城として営業開始する
  • 2019元年大坂城 太閤なにわ募金実行委員発足これ2013327から始まっ大阪城豊臣石垣公開事業実現ため結成事務大阪城パークマネジメントおよび大阪経済戦略観光観光担当をもって構成パークマネジメント事務所置い

構造編集

台地北端立地する坂城西3台地ある本丸から低地なっいる台地淀川その支流流れおり天然機能果たすとともに城内引き込む利用

坂城豊臣築城当初その落城徳川修築縄張構造変更いる現在地から見ることできる縄張全て江戸時代ものあるただし位置位置など秀吉時代基本大きな違いないいわいる

豊臣坂城編集

豊臣坂城極楽(豊臣大坂屏風)。両側上層楼閣外壁彫刻などルイスフロイス描写合致する慶長元年1596造ら秀吉慶長5豊国神社移築[16]

初代築城奉行黒田孝高縄張担当輪郭平城あり本丸中心規模同心円連ね内堀外堀配する秀吉築城に際して指示大坂市街から天守よく見えるよう天守位置街路など工夫伝えられいる丹羽長秀築城安土石垣構築方法踏襲おり現在大阪城地下7メートルから当時石垣発見いる

本丸構造建築携わっ中井正吉系譜江戸幕府京大ある中井伝来指図から窺える石垣築く技術当時無く曲輪により3構造なっいる本丸ある広いから山里曲輪最も高い位置占め天守御殿ある本丸一段低く御殿ある本丸その西ある出丸曲輪構成

台地北端造成築城大坂防衛弱点大軍展開できる台地続き南側西方から南方囲むようめぐらさ直前玉造南方真田信繁により半月出城真田構築果たしてこの方面から攻めかかる徳川篭城豊臣激戦なっ

宝厳寺国宝後方観音堂豊臣坂城極楽唐破風部分ないいわいる

なお琵琶湖北部浮かぶ竹生島ある宝厳寺国宝現存する唯一豊臣坂城遺構ないいわいる[17]

徳川坂城編集

徳川坂城豊臣坂城石垣天下普請行い藤堂高虎責任する全体1メートルから10メートル盛り土により高く石垣積んので豊臣坂城遺構地中埋もれまた天守など建物構造踏襲独自もの造り替えることなっこうして坂城天下普請始まる豊臣坂城当時において30以上古いあり朝鮮関ヶ原合戦大坂天下普請を通じて発達城郭技術応じ新た求められ

足かけ9にわたる天下普請結果城郭面積豊臣時代4分1規模縮小ものの最大90m達する外堀巡らせ天守その面積豊臣それ超える規模もの構築本丸東南西一番南西数寄屋御成門北ノ手月見馬印二の丸伏見三重江戸城しのぐ日本城郭史上最多なる12数え本丸北側山里曲輪ほぼ多聞張り巡らし山里西片2二ノ南側一番まで7玉造近く2大手門付近仕切門脇太鼓合計15及ん石垣本丸東においてより32メートル日本一ものなっ城門はじめ巨大鏡石置かまた放棄空き地として再建可能維持

天守編集

坂城天守天正寛永昭和これまで3造営いるいずれ外観異なる復興天守徳川坂城天守利用いる詳細以下通りある

豊臣坂城天守編集

豊臣大坂城天守
大坂屏風描か豊臣坂城天守
豊臣大坂城天守2
大坂屏風描か豊臣坂城天守簡略模写
市内出土箔押
大阪歴史博物館展示

1585天正13竣工1615元和元年落城焼失

豊臣坂城ものられいる平面本丸山里隔てる本丸石垣沿い本丸北東描かいる豊臣坂城天守天守いっぱい建てられ若松天守よう余地残し天守持っ考えられいる天守複合もしくは連結望楼56地下2あっ考えられおり外観塗り下見板張り漆喰部分灰色暗色用い金具金箔など施さ目立た考えられいる一説彫刻施しというものあるなお5黄金茶室あっいわいる最上階30ほど入る関白触れるほどあっルイスフロイス日本ある[18]

天守復元一番壮大華やか大坂屏風黒田屏風大坂屏風坂城屏風など参考いる場合多い特に大坂天守姿大きく異なっいるためもの再建または改築ものあるいいそれ沿っ復元三浦正幸などから出さいる黒田長政によって作成黒田屏風姿近い宮上復元大阪城天守閣豊臣坂城再現模型モデルなっいる

徳川坂城天守編集

徳川坂城天守願生寺指図いる

1626寛永3竣工1665寛文5落雷により焼失

徳川坂城天守江戸城本丸初代天守配置関係配置建てられられいる天守天守天守設けいる天守造ら天守曲輪よう状態だっ天守本丸御殿から廊下現在外接エレベータ位置架けられ

建物独立55地下1江戸城天守初代細身よう外観あり漆喰壁面だっられいる最上屋根銅板造ら本瓦金属以下瓦葺だっいう天守含め58.32メートルあっられいるこのことから江戸城初代天守縮小移築ある

天守図面内閣文庫所蔵大坂天守内閣指図大坂願生寺所蔵大坂天守指図願生寺指図あるそれぞれ相違おり内閣指図外観二条城天守ほぼ同じ破風配置願生寺指図外観江戸城天守ほぼ同じ破風配置ある

復興天守編集

1931昭和6117竣工

現在坂城大阪城象徴大阪象徴なっいる博物館ともなっいる大阪城天守閣ある

陸軍用地あっ本丸一帯公園計画伴っ1928昭和311就任当時7大阪市長關一によって再建提唱市民寄付により1931昭和6117竣工この市民寄付申し込み殺到ためおよそ半年目標150集まっそのうち25住友財閥総帥住友友成寄付ある150使い道天守再建47師団司令庁舎建築80大阪城うち本丸など一部公園北部大阪砲兵工廠残り大半師団敷地整備費用23ある

昭和以降各地建てられ復興天守ある本城天守閣1928先行するこちら模擬天守

建物徳川坂城天守石垣新た鉄筋鉄骨コンクリート基礎固め鉄骨鉄筋コンクリート構造吊り下げ工法用い建て54.8メートル天守含む58入口ある1部分地下からなっおり復興天守博物館大阪城天守閣なっいる

外観大坂屏風大阪土木建築古川重春設計意匠天沼俊一構造波江悌夫片岡施工大林組担当設計古川建築考証ため各地城郭建築訪ね文献など調査行っ設計当たっおりその様子古川著書錦城復興記さいる

坂城天守豊臣坂城徳川坂城それぞれ建っ場所外観異なる復興天守閣から4まで徳川時代漆喰一方5豊臣時代金箔絵図白鷺描いいるこの折衷に対して諸々議論あり豊臣時代もしくは徳川時代どちら形式統一べき意見ある

1995平成712から1997平成93にかけて平成改修行わこの建物全体改修加えられ構造阪神淡路大震災揺れ耐えられるよう補強外観塗り替え傷ん屋根取り替え鬼瓦金箔押し直し行わまた身体障害高齢向けエレベーター天守西側御殿廊下取り付けられ2007平成19外壁塗り替え5塗装より豊臣時代近いデザイン改められ

30焼失豊臣坂城天守39焼失徳川坂城天守比べ復興天守最も長命天守なっおり1997平成993登録有形文化財登録

屋根られる緑色緑青によるもの

遺構編集

現在城内大手門硝蔵多聞一番金蔵明水井戸屋など建物遺構残っおり重要文化財指定いるまた高麗について明治201887日本陸軍大阪鎮台によって再建ものある重要文化財指定いる

また現存する石垣多く当時遺構ある江戸時代坂城徳川幕府渡る天下普請によって再築石垣瀬戸内海島々小豆島犬島北木島など兵庫六甲山系遺跡徳川大坂城東六甲採石石切丁場から採石花崗岩あるまた遠く福岡行橋沓尾から採石生駒笠置加茂など木津川沿いから採石おりなっ伏見石材利用運ば石垣大名所有明示するため作業目的など多様目的刻印いる56m最大14m達する鏡石として多く使わいる城内最大備前岡山池田忠雄運ん本丸枡形ある重量最大130トン推定エジプトギザピラミッド12.5トンある比べその巨大分かるただし40cmたらしかないピラミッド内部ある花崗岩さえ80トンいわれるなおイギリスストーンヘンジ最大6.6m45トンあるまた城内4番ある大手見附5番ある大手一枚岩分割もの判明いる大阪市内小豆島など石垣使わ放置石材あり残念言わいる運搬落ち落城通じ縁起悪い捨てられある[19]現存する多く鏡石さほど厚み無く本来石垣置か化粧役目なっいる[20]

徳川坂城再建するにあたり豊臣坂城盛り土縄張変更築城ため現在大坂城址見ることできる遺構石垣全て江戸時代徳川坂城ものある大坂埋め立てられ含む豊臣坂城遺構大阪城公園周辺ビル道路地下埋没まま発掘部分しか行わない村川行弘大阪経済法科大学名誉教授考古学による昭和中期坂城総合調査により徳川本丸地下から秀吉時代石垣見つかっおり現在普段一般開放ない付き保存いるまた2003平成15大手三の丸水堀発掘調査堀底から障壁ある障子検出堀の内トーチカよう遺構見つかっまたこの発掘調査によって自体大坂とき工事埋められこと裏付ける状況証拠確認いる豊臣時代石垣公開する計画ありそのため募金活動平成25から行わいる[21]

城内編集

順位 位置 石名 推定重量 推定産地 担当大名
1 枡形 130トン 備前犬島 岡山池田忠雄
2 京橋枡形 肥後 120トン 讃岐小豆島 岡山池田忠雄
3 枡形 振袖 120トン 備前犬島 岡山池田忠雄
4 大手枡形 大手見付 108トン 讃岐小豆島 熊本加藤忠広
5 大手枡形 大手 85トン 讃岐小豆島 熊本加藤忠広
6 枡形 碁盤 82トン 備前沖ノ島北木島 岡山池田忠雄
7 京橋枡形 京橋 81トン 讃岐小豆島 岡山池田忠雄
8 大手枡形 大手 80トン 讃岐小豆島 熊本加藤忠広
9 枡形 60トン 備前犬島前島 岡山池田忠雄
10 枡形 52トン 備前沖ノ島 岡山池田忠雄
11 枡形 虎石 40トン 備前沖ノ島 岡山池田忠雄
重要文化財建造画像

文化財編集

重要文化財
  • 大阪城 13
    • 大手門 - 寛永51628創建元年1848修復[22]
    • 3大手門南方大手門北方多聞北方
    • 多聞 - 元年1848
    • - 元和61620
    • - 元和61620
    • - 寛永51628
    • - 寛永51628
    • 硝蔵 - 貞享21685
    • 金蔵 - 江戸時代寛永21625創建天保81837改修伝える定かない
    • 明水井戸屋形 - 寛永31626
    • - 明治201887
登録有形文化財
  • 大阪城天守閣天守- 昭和61931
特別史跡
  • 大坂城跡1955624指定

本節出典大阪府内指定文化財大阪サイト

ギャラリー編集

所在地編集

大坂城内外濠町名1879明治12から長らく馬場だっ1979昭和54外郭含む大阪城公園範囲大阪城町名実施郵便番号540-0002

交通アクセス編集

鉄道
路線バス
水上バス

姉妹城郭友好城郭編集

姉妹城郭
1983昭和58429提携両城豊臣秀吉築城ことから姉妹城郭なっ
1985昭和60112提携和歌山豊臣秀吉秀長築城ことから姉妹城郭なっまた江戸時代なる大坂2将軍秀忠直轄なり和歌山頼宣与えられ姉妹関係いえる
友好城郭
2006平成181010大阪關淳市長上田母袋市長大阪城天守閣会議提携調印[1][2]上田大阪城結果こそ異なるものの共に徳川大軍により攻撃受け上田真田昌幸大阪城真田幸村昌幸次子信繁活躍いるこのつながりから友好城郭なっ
2009平成211002調印オーストリア2都市グラーツエッゲンベルクいうよりある豊臣秀吉坂城城下町描い屏風発見こときっかけ友好城郭なっ

関連作品編集

絵画
  • 豊臣坂城
    • 坂城屏風 - 大阪城天守閣所蔵
    • 大坂屏風 - 大阪歴史博物館所蔵
    • 屏風 - 大阪城天守閣所蔵
    • 屏風 - 大阪城天守閣所蔵
    • 豊臣大坂屏風 - オーストリアエッゲンベルク城所蔵
  • 徳川坂城
    • 大坂市街屏風 - 個人
    • 大坂市街淀川屏風 - 大阪城天守閣所蔵

登場作品編集

映画
テレビゲーム
アーケードゲーム
小説
テレビドラマ
漫画アニメ

その他編集

  • 1970昭和45開催日本万国博覧会松下電器パナソニック毎日新聞企画によるタイムカプセル天守閣5,000開封れること託し埋設いる
  • ダイハツ工業オート前部取り付けあっエンブレム坂城イラスト使用
  • 現在大阪城本丸二の丸三の丸北の丸西の丸各所公園散策行うことできる例外として天守東側ある大手配水二の丸東部ある立入禁止なっいる
  • 2013平成25から大阪城公園西の丸庭園モータースポーツフリースタイルモトクロス大会Red Bull X-Fightersレッドブル X-ファイターズ会場として使用いる
  • 大阪市内24住居表示における符号大阪城最も近い起点として順番割り振っいる[23]

脚注編集

[脚注使い方]

注釈編集

  1. ^ 古くおおざかじょう読ま
  2. ^ フロイス日本本能寺津田坂城 (torre) 見張っという記述符合する
  3. ^ 豊臣大阪から払拭川崎東照宮造営あっ成功言いにくい
  4. ^ 1940本庁中部管区司令転用4師団司令現在神社鎮座移動

出典編集

  1. ^ 宮上松岡敏郎執筆学習研究社歴史名城シリーズ 坂城学習研究社2000
  2. ^ 渡辺武ほか編 大阪城ガイド 保育社1983年113頁ISBN 4586506180 
  3. ^ 渡辺大阪城歴史散策保育199259
  4. ^ 渡辺大阪城歴史散策保育199260
  5. ^ 大阪内外出来る公園計画大阪毎日新聞
  6. ^ 大阪歴史博物館
  7. ^ 大阪大礼記念事業概況官報1928103国立国会図書館デジタルコレクション
  8. ^ 空襲敗戦引揚昭和4 毎日新聞社 1975
  9. ^ 坂城豊臣石垣公開プロジェクト
  10. ^ 大阪城天守閣条例
  11. ^ 所有登記から見える歴史大阪城天守閣登記土地陸軍
  12. ^ 大阪城パークセンターサイト
  13. ^ 報道発表資料 大阪城公園パークマネジメント事業予定大阪城公園及び5施設指定管理予定選定まし大阪サイト
  14. ^ 国内最大多聞公開 大阪城から
  15. ^ 重要文化財多聞硝蔵内部長期特別公開ます
  16. ^ 発見豊臣大坂屛風魅力 関西大学なにわ大阪文化遺産研究センター2009331
  17. ^ 国宝 宝厳寺  滋賀長浜
  18. ^ 学研 坂城1994
  19. ^ 大阪城残念
  20. ^ について
  21. ^ 坂城 豊臣石垣公開プロジェクト
  22. ^ 建物年代刻印大阪城天守閣公式サイトよる
  23. ^ 大阪住居表示実施基準 - 大阪市民

参考文献編集

  • 岡本良一坂城岩波書店1970
  • 坂城学習研究社1994
  • 復元大系日本5 近畿ぎょうせい1992
  • 中村博司天下統一 坂城 シリーズ遺跡学ぶ新泉2008
  • 芦屋文化財調査報告60 徳川大坂城東六甲採石IV 石切丁場芦屋教育委員2005

関連項目編集

外部リンク編集