印旛県
印旛県(いんばけん)は、1871年(明治4年)に下総国内の管轄のために明治政府によって設置された県。現在の千葉県北西部、茨城県南西部、埼玉県東部のごく一部を管轄した。1871年12月25日に設置され、1873年6月15日に廃止された。県庁所在地は当初は佐倉であったが、短期間で二転三転した。
概要編集
1871年8月29日(明治4年旧暦7月14日)に廃藩置県が行われ、旧幕府領の県に加え、300にも上る県が成立した。そのために行政に支障を来したことから、明治政府は1871年12月25日(明治4年旧暦11月14日)に府県の統合(第1次府県統合)を実行した。
下総国内では、旧幕府領を管轄する葛飾県、旧藩領を管轄する6県(佐倉県、古河県、関宿県、結城県、生実県、曾我野県)と国外の県の飛地領を統合し、9郡の区域をもって印旛県が発足した。下総国のうち香取郡・匝瑳郡・海上郡は新治県の管轄となった。
県庁の立地は旧佐倉藩の城下町であった印旛郡佐倉に決定し、県名は郡名から定められた。ところが、佐倉に適当な庁舎候補地がなかったことから、臨時事務所を東京府薬研堀(現東京都中央区東日本橋二丁目)の旧下総知県事仮事務所(薬研堀御役所)に設置。その後、県庁を葛飾郡本行徳村字寺町の徳願寺境内(現在の千葉県市川市本行徳5番22号)に移転したが、交通が不便であったことから、葛飾郡加村字坂之台(現在の千葉県流山市加一丁目の流山市立博物館付近)の旧葛飾県庁に移転した。一説には、東京から近い場所に県庁を設置したいという県側の思惑があったといわれている。佐倉と関宿には支所が設置された(関宿への設置は翌1872年)。
1873年(明治6年)2月7日、初代県令の河瀬秀治が群馬県兼入間県県令に転任すると、隣の木更津県権令の柴原和が両県の権令を兼務した。そして、1873年6月15日に印旛県は木更津県と合併されて千葉県が設置され、県庁は両県の境に近い千葉郡千葉町に設置。柴原が引き続き初代権令・初代県令となった。
沿革編集
●は太政官布告の日付であり、実施日と異なる場合がある。
管轄区域編集
人口45万6,689人(房総通史)。区域の詳細は各郡の項目を参照。矢印の右は旧管轄県。●は印旛県の管轄区域外に所在した県の飛地。
- 下総国
- 結城郡(現茨城県) ←結城県、若森県
- 猿島郡(同上) ←古河県、関宿県、葛飾県、●峰山県、●壬生県
- 岡田郡(同上) ←若森県、●牛久県
- 豊田郡(同上) ←若森県、●牛久県、●龍ヶ崎県、●烏山県
- 葛飾郡(のちの千葉県東葛飾郡、埼玉県中葛飾郡、茨城県西葛飾郡) ←古河県、関宿県、葛飾県、●小菅県、●壬生県、●岩槻県
- 相馬郡(のちの千葉県南相馬郡、茨城県北相馬郡) ←関宿県、●土浦県、●高岡県、●一宮県、●淀県
- 千葉郡(現千葉県) ←佐倉県、生実県、曾我野県、葛飾県、●龍ヶ崎県
- 埴生郡(同上) ←佐倉県、葛飾県、●淀県
- 印旛郡(同上) ←佐倉県、●高岡県、●淀県
- 美作国(ごく短期間のみ)
- 摂津国(ごく短期間のみ)
歴代知事編集
関連項目編集
脚注編集
- ^ 「旧高旧領取調帳」によると、金屋村、種村、荒神山村、皿村、高尾村(以上現津山市)、越尾上村、越尾下村、栗子村、金堀村、新城村、原田東村、原田中村、原田西村、西幸村、頼元村(現久米郡美咲町)、北庄山手下村(以上現久米郡久米南町)、小原南村、小原北村(以上現美咲町)、北庄山手上村、北庄里方村、南庄東村、南庄西村、上弓削村、下弓削村、西山寺村、松村、上籾村、上神目村、下籾村、中籾村(以上現久米南町)。
- ^ 「旧高旧領取調帳」によると、沢良宜東村、沢良宜西村、水尾村、宇野辺村、馬場村、田中村、目垣村、東蔵垣内村、安威村(いずれも現茨木市)。
- ^ 「旧高旧領取調帳」によると、北大道村、小松村、上新庄村、堀村、宮原新家村(いずれも現大阪市東淀川区)。
- ^ 「旧高旧領取調帳」によると、平野郷町、猿山新田、喜連村、堀村(いずれも現大阪市住吉区)。
- ^ 「旧高旧領取調帳」によると、滝寺村(現神戸市中央区)、篠原村(現神戸市灘区)。
先代: 佐倉県、古河県、関宿県、結城県、 生実県、曾我野県、葛飾県 |
行政区の変遷 1871年 - 1873年 |
次代: 千葉県 (1875年に一部が茨城県、埼玉県に編入) |