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二条城 - Wikipedia

二条城

日本京都京都ある城郭及び皇室関連施設

二条城じょうじょ京都中京二条通堀川西入二条城町かつて山城葛野ある江戸時代造営日本正式名称離宮二条城もとりきゅうじょうじょ

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元離宮二条城
京都
唐門越しに二の丸御殿を望む
越し二の丸御殿望む
別名 離宮
恩賜離宮二条城
城郭構造 輪郭平城
天守構造 複合望楼551603移築
複合551628移築現存
城主 徳川家康
築城 1603
城主 徳川江戸
皇室明治17昭和14
1873明治6
により処分受ける
遺構 御殿番所土蔵
石垣庭園
指定文化財 国宝二の丸御殿6
重要文化財建造22二の丸御殿障壁1016
国史特別名勝二の丸庭園
世界遺産古都京都文化財
位置 北緯35050.96 東経1354451.0 / 北緯35.0141556 東経135.747500 / 35.0141556; 135.747500座標: 北緯35050.96 東経1354451.0 / 北緯35.0141556 東経135.747500 / 35.0141556; 135.747500
地図
元離宮二条城の位置(京都府内)
元離宮二条城
離宮二条城
元離宮二条城の位置(日本内)
元離宮二条城
離宮二条城
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京都市ある平城後述する足利織田豊臣徳川によるものある現存する徳川によるものある

また近代において二条城京都府庁皇室離宮として使用1939昭和14京都恩賜現在至る

城内全体史跡指定いる二の丸御殿6国宝22建造二の丸御殿障壁1016重要文化財二の丸御殿庭園特別名勝指定いるさらに1994平成6ユネスコ世界遺産世界文化遺産古都京都文化財として登録いる

徳川家康将軍宣下伴う徳川慶喜大政奉還行わ江戸幕府始まり終わり場所あるまた近代において大正天皇儀式ある即位饗宴として使用場所なっ

城跡について編集

日本歴史において二条城呼ばれることあるもの複数ある

  1. 室町幕府13将軍足利義輝御所御所武衛陣構え
  2. 室町幕府15将軍足利義昭御所として織田信長によって作ら二条通から遠く離れただし平安京大路中御門大路木通挟ま地域南部わずか含まれる義輝御所とともに冠し呼ばれるこのため考えられる
  3. 織田信長滞在宿所として整備皇太子献上二条新御所この屋敷設けられため呼称考えられる[1]
  4. 徳川家康京都守護及び上洛宿所として造営近代内省所管なり離宮現在二条城離宮二条城ある

現存する二条城4ある12同じ場所造ら連続ない1二条城称し当時から現代至るまで無い2前史としてここ紹介おく23同じもの見る[2]ある信長その他史料及び発掘結果残存地名など根拠としてものする現在通説なっいる23について二条城呼ぶ4.完成江戸時代以降ことあり4区別する趣旨城跡[3]呼ばいるこの近世以降現在ある4.前史として1武衛陣構え23城跡について略説する

足利義輝御所武衛陣構え編集

81565戦国乱世ただなかあっ義輝幕府重鎮あっ斯波屋敷自ら築い斯波職名由来その屋敷洛中洛外えいとして登場する現在二条城跡地地名武衛陣あるこれ由来いるあっ完成寸前方様御館四方深堀堅固造作有り未だ御門以下出来しゅったい足利三好襲撃受け義輝落命跡地真如堂移さ

足利義昭二条城編集

二条古城 石垣京都御苑

義輝義昭織田信長武力後ろとして111568上洛将軍就任本圀寺居所1215691三好による襲撃受け本圀寺この京都信長家臣および義昭側近奮戦により防戦成功するこの受け信長さらに防備整っ必要認識義昭ため築城すること決め場所義輝武衛陣あっ中心北東拡張400メートル四方敷地23天主備える城郭邸宅[4]

信長自身普請奉行として現地陣頭指揮執り御殿など建築統括する大工奉行村井貞勝島田秀満任じられ建物多く本圀寺から移築[5]さらに屏風絵画など什器まで本圀寺から運び込ま細川一族分家細川細川から文字通り鳴り物入り藤戸搬入築城70という短期間終えその4義昭ここ本拠移しこの石垣京都から集められ墓石石仏使わ山科くら驚嘆いるくら石垣ことこの初めて本格石垣積んあっこと示しいる周辺から金箔発掘おり急ごしらえ豪壮殿舎あっ考えられいる当時武家御所武家公方御構など呼ばなお315723信長義昭強い勧めあっこの北方武者小路自ら屋敷着工いる完成建築奪われること困っ本圀寺僧侶松永久秀信長移築中止取り成し頼ん無理断らまた1500法華信徒莫大信長献上さらに望み通り金銭提供申し出免除請い将軍朝廷働きかけ信長取り合わなかっ[6]

ところが義昭信長関係徐々に悪化3義昭信長追討応じ武田信玄西上開始戦い勝利収め知る天正元年15733義昭二条城において信長に対し挙兵する信長上京町屋焼き払い包囲する自体に対して攻撃控え正親町天皇勅命和議成立するしかし7再び義昭宇治槇島において挙兵する槇島戦いこの二条城公家日野倉永義昭側近幕臣ある伊勢守備ため置か織田包囲れる交え降伏この御殿など兵士たちによって破壊伝えられる

この直後槙島義昭降伏畿内から追放室町幕府実質滅ぶことなる二条城残っ天主天正41576解体安土運ば築城安土転用

昭和501975から昭和531978まで京都市営地下鉄烏丸線建設先立つ烏丸発掘調査行わこの信長二条城石垣および2確認この発掘石垣あっ石仏京都文化博物館及び西京西竹林公園展示いるまた石垣一部京都御苑木口内側及び二条城復元いる

織田信長親王二条新御所編集

附近 二条殿京都中京両替御池上る東側京都国際マンガミュージアム龍池小学校付近[7]

織田信長烏丸室町御池上る付近設け

信長天正415764滞在二条通南妙覚寺現在地異なる宿泊東側隣接する公家邸宅眺望気に入っ二条二条殿押小路烏丸殿当時洛中洛外屏風必ず描かれるほどあっ信長養女父子直前信長からいにより報恩寺新邸移徙空き家なっので信長上洛宿所するためこの譲り受け二条殿御構普請京都所司代村井貞勝命じ

翌年7信長初めて入8月改修終わり以後2ほどこの二条新御所御新造武家とも自ら居住宿所本邸として使用する天正71579この屋敷皇太子親王献上同年1122東宮親王若宮和仁陽成天皇この二条新御所移動なおこの信長猶子おりこれ正親町天皇ある親王あてる誤解ある正しく親王猶子なっあるこの御所様子江村専斎老人雑話信長二条殿報恩寺替え地移し小池御所取立て屋形結構小池反り橋などかけ烏丸かけ室町東側町屋あり町屋長壁かけたり南面なり記録れるこれよれ義昭比べ遥か小さくこのに対する信長考え方伺える

天正101582本能寺起きる妙覚寺信長嫡男信忠主従それ知る本能寺信長合流するため出撃しよしかしそこ村井貞勝父子駆けつけ本能寺既におち伝え防御能力優れ二条新御所移ること進言信忠親王二条新御所から出しこここれ攻囲する明智光秀奮戦する信忠始め貞勝60討ち死に二条新御所灰燼帰し[8][9]

現在両替御池上ル附近 二条殿室町御池上ル二条殿御池彫ら石碑建っいる付近二条殿御池之及び本能寺ゆかり上妙覚寺下妙覚寺地名残るなおこの御池現在御池名前由来なっ跡地直後秀吉により信忠菩提弔うため創建間もなく秀吉京都改造伴い寺町四条移転られ

この二条新御所義昭城跡設けられするある山科天正49131576105大将二条新見物14106武家古城見物石垣取り壊し搬出いる様子目撃こと記さいるから明らか場所あっ考えられるまた親王当時禁裏御所に対し御所呼ばから二条新御所禁裏南方あっ思わ御所西あっ義昭城跡築かする不自然あるさらに本能寺信忠妙覚寺から二条新御所移しいるから両者近傍在っ推測れる[10]同じ信忠恩顧小沢六郎三郎二条新御所駆けつけ明智囲まため通り新町通二条ことって構え駆け込ん信長記さいるから二条新御所二条通南方あっこと明らかありこのから義昭二条城あっ判断できるまた触れようこの信忠菩提寺建築いること有力傍証なる

羽柴豊臣秀吉妙顕寺編集

妙顕寺城跡示す石碑

羽柴秀吉豊臣秀吉構えいる秀吉信長在世御新造隣接屋敷有し天正81580信長によって没収お気に入りあっ関白近衛献上いる皮肉本能寺近衛家人逃げ出しこの屋敷占拠明智ここから二条新御所攻撃というあり明智軍記やがてそれ尾ひれ付い光秀加担風説流さその後天正111583本拠地大坂定め秀吉京都における拠点として構え妙顕寺移転その跡地建設ことから妙顕寺呼ばれる周囲巡らし天守あっ

聚楽第完成まで秀吉政庁として使わ普段前田玄以所在地二条城200メートル中京小川押小路付近地名古城ふるし下古城しもふるしろのこしいる天正少年使節引き連れ聚楽第秀吉訪ね巡察使アレッサンドロ・ヴァリニャーノ前日豪華秀吉屋敷泊っある位置時期から言っこれこのあっ可能高い

離宮二条城歴史沿革編集

江戸時代二条城編集

創建編集

幕府二条城称し朝廷これ呼ん

  • 慶長616015関ヶ原戦い勝利徳川家康上洛宿所として大宮押小路築城決め町屋立ち退き開始12西国大名造営費用および労務割り当て行っ天下普請造営奉行京都所司代板倉勝重作事建築大工棟梁中井任じられ
  • 慶長716025御殿天守造営着工
  • 慶長816033落成但し天守慶長111606完成
  • 慶長81603212家康伏見において征夷大将軍補任宣旨受け312竣工ない二条城入城同月25室町幕府以来慣例基づく拝賀行うため御所行列発しそれ続き27二条城において重臣公家招い将軍就任祝賀行っこの将軍就任手順2慶長101605家康息子2将軍秀忠元和916233将軍踏襲する曾孫4将軍以降行わなくなっ
  • 慶長161611二条城御殿現在二の丸御殿において家康豊臣秀頼会見二条城会見行われる
  • 慶長191614大坂勃発二条城大御所家康本営なり伏見から出撃する将軍秀忠軍勢続き家康二条城から大坂進め
  • 元和元年1615大坂において二条城かけ混乱家康暗殺しよ陰謀明らかなり徳川つい古田織部家臣木村捕縛このため織部切腹家財没収なる事件あっ
  • 元和51619秀忠和子後水尾天皇入内備え二条城改修行うこの縄張基本設計秀忠自ら藤堂高虎と共に行っ秀忠2から一方最終選定だけ将軍自ら縄張りある持ち上げられだっ
  • 元和61620618徳川和子二条城から長大行列作り後水尾天皇もと入内

行幸編集

  • 寛永元年1624徳川家光将軍秀忠大御所なっ寛永元年から二条城後水尾天皇行幸迎えるため改築始まっ西拡張天守拡張西側位置変えなっ伏見天守移築作事奉行小堀政一五味京都郡任じられる尾張紀伊など親藩譜代19石垣普請担当
  • 寛永31626行幸寛永39616261025から5日間渡っおこなわその間舞楽能楽鑑賞乗馬蹴鞠和歌催さこの行幸二条城最盛ある行幸ため新た建てられ行幸御殿上皇なっ水尾御所移築その他多く建物解体撤去
  • 寛永1116347秀忠家光307引き連れ上洛二条城入城最後二条城将軍迎えること途絶え幕末動乱まで230年二条城歴史舞台から姿消す

その230暴風雨地震落雷徐々に建物破損老朽する寛延31750落雷により天守焼失さらに焼き払っ天明81788大火飛び火原因本丸御殿など焼失破損部分に関して修理行わ失し建物について再築れることなく幕末迎える

  • 寛永21625二条城将軍不在管理警衛ため城代二条設置
  • 元禄121699二条城代廃止その職務二条担当することなっ
  • 文久218628交代二条廃止それ代わっ常勤定番設置なお朝廷監視および折衝担当する京都所司代二条城構えそこ政務執っため将軍不在二条城幕府政庁として全く使用なかっ

幕末編集

庭園から二の丸御殿から大広間式台
  • 万延元年1860京都地震発生御殿御門など傾くなど大きな被害受け[11]
  • 文久2186214将軍徳川家茂上洛そなえ荒れ果て二条城改修行われる二の丸御殿全面修復本丸御殿建てられ
  • 文久318633家茂朝廷要請応え上洛する
  • 慶応元年1865家茂再度上洛入るすぐ長州征伐指揮執るため坂城移るしかしここ倒れ慶応21866死去する
  • 慶応21866によって将軍一橋慶喜決定れる慶喜就任拒絶幕府関係のみなら朝廷から度重なる説得ようやく12二条城において15将軍拝命宣旨受ける
頓田大政奉還聖徳記念絵画人物徳川慶喜場所二の丸御殿書院
  • 慶応318679慶喜宿所若狭小浜から二条城移す10大政奉還将軍返上12朝廷より納地命令二条城伝達れるこの旗本中心する徳川直属5000会津3000桑名1500集結おり朝廷操る薩摩挑発に対し激昂軍事衝突避けるため慶喜二条城からこれら連れ坂城向かう二条城若年寄永井尚志水戸200守備ため残っしかし命令系統混乱から別に二条城守備受け新選到着水戸藩士押し問答なるこの永井機転新選伏見奉行守備回ること解決

近代編集

聖徳記念絵画壁画二条城太政官行幸小堀鞆音
  • 慶応418681鳥羽伏見戦い召還尚志代わり二条城水戸藩士梅沢孫太郎留守なっ15129朝廷政府受け議定徳川慶勝引き渡さ太政官設置23明治天皇初めて行幸白書幕府討伐発しにより政府新しい中央政庁として機能かける3明治天皇太政官再び行幸417本丸皇居二の丸太政官造営する命じられる421太政官宮中移転
近代二条城

離宮として編集

大正4石版大礼記念 二条城内豊楽殿大饗宴之御盛儀美堂田中良三
  • 明治1718847 - 内省所管なり離宮なる[12]
  • 明治181885 - 京都府庁移転二の丸御殿修理明治251892まで行われる
  • 明治261893271894京都御苑今出川門脇位置する桂宮本丸移築本丸御殿する
  • 大正41915 - 大正天皇儀式ある即位饗宴として離宮使用清流位置それ伴い増築れる[13][14]
  • 昭和141939 - 京都下賜れる
  • 昭和151940 - 恩賜離宮二条城として一般公開れる

現代編集

縄張編集

現在離宮二条城二条城建物配置
1.東大手2.番所34.二の丸御殿車寄5. 二の丸御殿式台大広間6. 二の丸御殿書院7. 二の丸御殿白書8.二の丸庭園9.蓬莱10.台所11.12.土蔵13.便所14.事務所15.16.17.梅林18.西門19.本丸御殿20.本丸櫓門21.本丸庭園22.天守23.和楽24.25.大手2627.展示収蔵

立地編集

二条城かつて平安京大内裏あっ場所南東そのあっ禁園天皇庭園ある神泉苑またがるある東西500メートル南北400メートルほぼ矩形厳密東側からなっいる南北狭くなっいる西側部分徳川家光時代行わ寛永改修によって拡張部分家康による創建現在東側半分二の丸のみあっ

家康この選ん理由不明この比較的人家まばらあっことそれでも取り壊さ考えられるそのほか信長二条新御所秀吉妙顕寺並ぶ東西ライン秀吉聚楽第から延ばしライン交差する場所いわゆる聖なるライン交わる場所あっこと注目れる特に聚楽第存在大きく共に堀川西域立ち御所向け開けいる様子家康聚楽第意識こと明瞭示しいる

縄張編集

縄張形式本丸四方二の丸取り囲む輪郭分類れる本丸中央より西寄り配さいる本丸150メートル四方ほぼ正方形あり本丸二の丸内堀二の丸周り外堀造らいる二の丸本丸ある仕切によって東西分かれいるこの西側部分西の丸呼ぶ資料ある家康による創建現在二の丸東側部分本丸あり本丸のみ構成れるあっ大手門前広場堀川隔て堀川流れいるまで言えないもの堀川防御として想定可能ある実際江戸時代西堀堀川南北通行妨げる釘抜き設けられ大手門前広場町民立ち入ることできなかっなお家康による1二条城絵図見つかっおらその内部様子よくわからない

二条城敷地現在京都市ほぼ受け継がいる平安京割りに対して時計回り3傾きあるこれ宣教師によって日本もたらさ方位磁石普請用いためある[21]証拠ないもしそうなら南北明瞭当時京都なぜわざわざ磁石使っという疑問新た生じるまた現在ところ方位磁石慶長以前家康周辺もたらさ証拠なくその以降幕府造営磁石使用事実確認ない発掘か所聚楽第石垣ともに正方に対し時計回り方向3傾きあること認められまた聚楽第周辺街路同様傾き持つことからこの傾き作っ秀吉家康その傾き継承可能ある指摘ある[22]

将軍滞在として規模小さく防御能力問題ありそう家臣疑問に対し家康持ちこたえれ周辺から援軍来る万が一この落ちたら取り返す手間かかる答え伝えられる

江戸時代中期二条城縄張り

国宝二の丸御殿編集

二の丸御殿右側から車寄手前式台
二の丸御殿大広間手前及び書院左手
二の丸御殿菊花紋章車寄
車寄二の丸御殿玄関

二の丸中心建造ある国宝二の丸御殿東大手から入っ正面西方建つ御殿築地囲ま正門ある南側あるそれくぐる正面二の丸御殿玄関にあたる車寄くるまよせ見える二の丸御殿手前から順にざむらい式台しきだい大広間蘇鉄書院くろしょいん白書しろしょい呼ばれる6建物雁行並び廊下接続一体なっいる当初銅版箔押しあっ現在現存いるより遥か華やかものあっ大広間西側書院南側日本庭園ある北側台所配膳するため呼ばれる建物ある現在なっいる唐破風車寄屋根明治修理により瓦葺きからなっものある

国宝二の丸御殿経緯建築について編集

二の丸御殿天井
場所二の丸御殿書院人物徳川慶喜頓田大政奉還聖徳記念絵画))
二の丸御殿図面

徳川家康二条城造営着手慶長61601ある現存する二の丸御殿建物その20寛永改修ものある後水尾天皇二条城行幸備え寛永元年1624から御殿改修始まり31626完成二の丸御殿寛永新築近い改修受けいること川上調査判明おり建物障壁について寛永あること土居武田恒夫研究明らかなっいる[23]

御殿正門ある入る正面及び車寄あり以下式台大広間蘇鉄書院白書建物南東から北西雁行配置れる建物渡廊下連結いる及び車寄式台大広間蘇鉄書院白書6国宝指定及び車寄1数えるこれら建物各室とこ障子長押など狩野狩野絵師による障壁描かいる御殿建物おおむね寛永状態伝える改変部分ある建物屋根現状瓦葺きある当初杮葺あっ貞享31686建物破損検分行っ記録よれ当時すでに瓦葺きあっので屋根葺き変更時期1686さかのぼること明らかある[24]

二の丸御殿明治以降昭和141939京都下賜れるまで京都府庁離宮として使用その間障壁破損進ん大広間書院外面腰高障子明治新た入れられもの当初使わなかっものある日本城郭御殿明治以降もの多いなか二条城二の丸御殿一部改変破損あるいえ元来からオリジナル建物障壁ともに現存するという意味大変貴重存在ある名古屋本丸御殿障壁部分現存する建物太平洋戦争空襲焼失

二の丸御殿うちもっとも手前位置かつもっとも規模建物ある南北向け入母屋瓦葺き建物以下述べる二の丸御殿殿いずれ入母屋瓦葺き面積1,048平方メートル登城大名家臣控えなっ建物ある平面正方形近く間取り東西南北とも3構成北東位置する勅使上段下段分かれるから時計回りとも松の間ありこれら囲ま中央芙蓉物置ある物置以外各室障壁ありいずれ地濃ある勅使上段21下段35上段半幅形式とこ備える書院ないこのよう規模御殿書院設けない異例ある向かっ通常書院設けられる位置腰高障子嵌める画題上段下段大樹地濃ある障壁画題いずれ竹虎これら別称ある玄関障壁描くこと名古屋本丸御殿などあり来訪威嚇する意図あるいう障壁筆者について野山伝えある研究狩野甚之推定いる二条指図宮内庁障壁筆者真節おりこれ指す[25]なおこのについて名古屋本丸御殿対面障壁筆者れる別人または制作時期大きく異なる可能指摘いる[26]

式台

式台西接し建つ東西建物ある面積332平方メートル登城大名取次なっ建物手前式台その裏手老中老中老中ある各室障壁いずれ地濃ある式台48とこ書院設備ない式台障壁巨木描く[27]

大政奉還様子人形表現いる場所二の丸御殿大広間中央人形徳川慶喜再現いる

大広間式台西接し建つ南北建物ある面積784平方メートル二の丸御殿殿うちもっとも格式高く将軍表向き対面用いられ公式儀礼空間ある上段下段ともからなる48とこ書院備え天井もっとも高い格天井する障壁巨木主題する式台大広間障壁筆者について二条指図狩野采女すなわち狩野あり伝承どおりみなさ[28]2019元年二条城研究によりに関して野山手掛け結論付けられ通説覆さ報じられ[29][30]

蘇鉄式台書院つなぐ南北渡廊下建物ある明治板敷変更いる江戸時代部屋あっ[31]

書院蘇鉄北西接し建つ東西建物ある書院幕末から呼称それ以前書院呼ば面積569平方メートル大広間公式儀礼表向き対面あっに対し書院向き対面あり将軍御座所でもあっ規模大広間より回り小さい上段からなり障壁画題からそれぞれ浜松いう24とこ書院備えるこのうち北面東端から東面北端にかけて折りL字形配置する特色ある天井格天井大広間ようない障壁式台大広間同様主題する貼付柴垣小禽など配し松樹残雪表すなど早春季節表すさらに貼付合わせ松竹梅表しいる書院障壁筆者について二条指図狩野尚信あり伝承どおり尚信みなさいる[32]

白書書院建つ南北建物御殿建物うちもっとも位置する書院渡廊下介し接続する白書幕末から呼称それ以前御座など呼ば面積318平方メートル大広間書院比べ規模小さい向き建物ある将軍休息寝所として使用障壁殿地濃主としている異なり白書障壁淡彩主体なっいる間取り書院同様上段からなる規模書院より小さい15とこ書院備える天井格天井ない書院天井同様ある障壁淡彩山水中国西湖情景表しものある白書障壁筆者について二条指図狩野狩野ある筆者について異説あり2012東京江戸東京博物館開催二条城狩野長信または以筆[33][34]

建造 編集

外部出入り口として城門東西南北1ずつあるただし1915大正4大正天皇大典備え新た造らもの本来城門ない正門堀川面し東大手櫓門ある西門前述外堀渡るなく使用ない大手門櫓門普段閉鎖いるまたこの城内5城門ある二の丸東西分ける中仕切南中仕切二の丸本丸結ぶ通路入り口なる鳴子桃山その通路から内堀渡っ本丸入り口なる櫓門あるなお東大手現在創建同じく櫓門なっいる後水尾天皇行幸仰ぐから見下ろす不敬として変えられ行幸再び櫓門戻さ

二の丸御殿編集

二の丸御殿について上記項目参照

本丸御殿編集

本丸御殿離宮時代御所あっ桂宮1847建築1893明治26から1894明治27にかけて移築もの徳川二条城本来無関係建物ある過去期間限定公開耐震不足判明ため2007平成19最後公開中止以降内部公開ないもともとあっ京都御苑敷地築地表門勅使また庭園現存いる

本丸御殿洋風庭園ある

天守編集

創建天守洛中洛外屏風北西部分現在清流辺り望楼5天守として描かいるこの天守慶長家康によって現在二ノ北西建てられもの大和山城天守移築ある記録天守渡廊下記述あり天守形成考えられるこの天守3行わ寛永改修再び移築移築天守図面残さいるので慶長天守復元可能ある

これ代わり新た造ら本丸南西前年一国一城によって伏見天守移築この寛永天守取付矢倉付属する55天守あっ1750寛延3落雷焼失以来再建なかっ現在天守のみ残る天皇昇っ唯一天守ある

移築建造編集

  • 江戸時代およそ4本丸建物仙洞御所移築その火災遭っいる
  • 横浜三渓聴秋三笠移築現存重要文化財指定いる
  • 京都東山ある豊国神社寛永増築に際して以心崇伝二条城下賜もの明治なっ神社再興する金地院から譲ら移築もの国宝指定いる
  • 東京世田谷ある世田谷観音阿弥陀堂という建て金閣寺という望楼建築二条城本丸から移築伝わる二条城違いこの建築建築方法外見大きく異なる風流など嗜むためもの思われる

庭園編集

二の丸庭園編集

二の丸庭園北西方向より右側手前亀島蓬莱島

別名小堀代表として挙げられること多い桃山様式池泉回遊庭園[注釈 1]ある3浮かぶ中央ややよりもっとも大きい蓬莱島ありその亀島鶴島ある亀島鶴島組まいる蓬莱島亀島と共に見えるアングルから鶴島と共に見えるアングルから組ま常に表現する趣向なっいる北西ある広がる芝生部分寛永行幸行幸御殿建てられ場所ありこちら庭園1正面なる2正面大広間3正面書院という正面設計ある

本丸庭園編集

本丸御殿移築始まり1896明治29完成洋風庭園日本庭園異なり枯山水なく芝生植樹中心回遊庭園ある

清流編集

二の丸大手門付近1965昭和40作ら和洋折衷庭園

文化財編集

世界遺産編集

古都京都文化財構成する17遺産1として世界遺産平成6199412登録

国宝編集

  • 二の丸御殿 6 - 1952昭和27329文化財保護基づく国宝指定
    • 及び車寄
    • 式台
    • 大広間
    • 蘇鉄
    • 書院広間
    • 白書御座 附属書院白書

重要文化財編集

二の丸御殿

内省から京都移管1939昭和141028上記二の丸御殿6含む24国宝保存基づく国宝国宝指定1944昭和19本丸御殿4追加指定その後1950昭和25文化財保護施行伴い国宝すべて重要文化財として指定ものみなされることなっ

建造
  • 本丸御殿桂宮
    • 玄関
    • 書院
    • 御殿
    • 台所及び
  • 二の丸御殿
    • 築地
    • 台所
    • 廊下
  • 本丸櫓門 南方北方
  • 東大手 多門外面南方外面北方内面南方内面北方
  • 大手 多門外面東方外面西方内面東方内面西方
  • 西門 多門
  • 鳴子
  • 桃山
  • 北中仕切
  • 南中仕切
  • 東南 多門西方
  • 西南 多門北方東方
  • 土蔵米蔵二の丸御殿北方
  • 土蔵北米
  • 土蔵南米
  • 東南北方多門[35]
絵画
  • 二条城二之丸御殿障壁画 95462 - 1982昭和5765指定障壁明細

史跡編集

二条城外堀囲む道路含め二条城全域1939昭和141130離宮二条城史跡指定

特別名勝編集

展示収蔵編集

展示収蔵

築城400記念 展示収蔵略称:展示収蔵二条城敷地東方ある施設あり1982重要文化財指定二の丸御殿障壁原画保管いる築城400記念20043竣工20051010開館御殿におけるレイアウト同様並べられ障壁ガラス越し鑑賞できる[36]

現地情報編集

  • 所在地 - 京都中京二条通堀川西入二条城541
  • 交通
    • 地下鉄 - 京都市営地下鉄東西線城前徒歩1
    • バス - 京都市営バス 9125067101111系統二条城バス停下車すぐ京都市営バス 15系統京都バス 61626364系堀川御池バス停下車徒歩2京都市営バス 1093202204系統堀川丸太バス停下車徒歩6
  • 入城 - 一般620二の丸御殿観覧する場合別途410必要中高生 350小学生 200
    • 二条城障壁展示収蔵入館 - 小学生以上200別途入城必要
  • 開城時間 - 845-16時閉城17
    • 二の丸御殿観覧時間 - 845-16時
    • 展示収蔵開館時間 - 9-16時45受付1630まで
  • - 年末1229-12月31
    • 二の丸御殿殿 - 毎年12178毎週火曜日11-131226-12月28日当該休日場合その翌日する

その他編集

脚注編集

注釈編集

  1. ^ 中心配しその周り歩い鑑賞する庭園

出典編集

  1. ^ 信長天正44二条殿御構普請二条殿御屋敷幸い空間にてこれありある
  2. ^ 広辞苑平凡社日本歴史地名など
  3. ^ [https://ja.kyoto.travel/tourism/single02.php?category_id=8&tourism_id=892 城跡公益社法人 京都観光協会
  4. ^ このあっする信長12221569217古き御構ひろげさせられ初出
  5. ^ フロイス日本
  6. ^ フロイス日本
  7. ^ 殿. 京都. 202126閲覧
  8. ^ 近藤 1926, p.255
  9. ^ 太田 & 中川 2013, pp.316
  10. ^ フロイス日本信忠宿舎その寺院安全なかっので駆け付け武士たちとともに近く住ん内裏天皇息子親王避難ある
  11. ^ 西山昭仁文政京都地震(1830年)における京都盆地での被害要因の検討 -桟瓦葺屋根の普及による被害の拡大-東京大學地震研究所彙報第85巻第1号東京大学2010年12月24日 33-47頁 NAID 110007975773
  12. ^ 指定文化財データベース文化庁
  13. ^ 歴史|二条城 世界遺産離宮二条城
  14. ^ 京都大礼 -即位大嘗祭宮廷文化みやび-
  15. ^ 年表|二条城 世界遺産離宮二条城
  16. ^ Sankei Biz ダイアナ来日はし使えない 心配 バッグナイフフォーク ジョーク
  17. ^ 年表|二条城 世界遺産離宮二条城
  18. ^ All about トムクルーズ主演ラスト サムライ京都ロケ トム正月映画ロケココ
  19. ^ 二条城一口城主募金 日本語
  20. ^  京都二条城公開
  21. ^ 1613平戸サリング磁北ずれ測定それよれ磁北に対し250ぶれこのぶれ現在二条城ぶれほぼ一致する渡辺真経研究よれこの時期磁北急激変化いく時期あたっおり測定10二条城創建磁北ぶれ1あっ考えられるただし渡辺自身この研究自体まだ確実言えないいる渡辺久雄研究参照
  22. ^ 加藤繁この石垣傾き根拠新た聚楽第外郭推定傾斜作成その大手日暮通同じ傾きもっ伸ばす家康創建二条城西堀外縁ぴたり添うこと示し加藤繁聚楽第余聞 聚楽第二条城縄張りについて試論美術9072020所収
  23. ^ 週刊朝日百科 日本国宝 62 p.7 - 38筆者大和; 同書p.7 - 52筆者西和夫
  24. ^ 週刊朝日百科 日本国宝 62 pp.7 - 38 - 7 - 39筆者大和
  25. ^ 大森1974pp.283 284; 土居1974pp.318, 326 - 328
  26. ^ 二条城二の丸御殿名古屋本丸御殿p.115
  27. ^ 大森1974pp.285 - 286; 武田1974p.346
  28. ^ 大森1974pp.286 - 287; 離宮二条城小学館1974図版解説p.450; 狩野博幸二の丸御殿障壁週刊朝日百科 日本国宝 62 pp.7 - 46 - 7 - 47
  29. ^ 京都二条城絵師野山 朝日新聞 2019828
  30. ^ 狩野障壁通説覆る 読売新聞 2019710
  31. ^ 週刊朝日百科 日本国宝 62 p.7 - 44大和
  32. ^ 大森1974pp.289 - 290; 武田1974pp.347, 353, 358, 361; 離宮二条城小学館1974図版解説pp.453 - 454
  33. ^ 大森1974p.291; 土居1974pp.332 - 333
  34. ^ 二条城江戸東京博物館
  35. ^ 東南北方多門昭和19本丸御殿追加指定官報告示昭和1995文部省告示1058東南いる昭和27二の丸御殿国宝指定官報告示昭和271016文化財保護委員告示21指定329東南北方多門見えない参照文化財建造保存技術協会刊行国宝重要文化財建造官報告示1996平成2年文化庁国宝重要文化財建造目録法規1990東南北方多門東南いる
  36. ^ 築城400記念 展示収蔵
  37. ^ 大判小判 東海銀行戻る 犯人同期なおナゾ朝日新聞1978昭和537111323
  38. ^ くぼみ 世界遺産ボールぶつける 立ち入り禁止大手門エリア 産経新聞 201626
  39. ^ 二条城聖火リレー大会組織認め 公道代わり京都さらに代替検討”. 京都新聞 (2021511). 202162閲覧
  40. ^ 京都スタジアム聖火リレー張り替え500”. 毎日新聞 (2021530). 202162閲覧

参考文献編集

史料
引用文献
  • 北島徳川家康中央公論社19636162 - 163
  • 二条城歴史 名城シリーズ 111996541
    • 不滅建築 11 二の丸御殿毎日新聞社1989
  • 週刊朝日百科 日本国宝 62 朝日新聞社1998
  • 村田治郎関野離宮二条城小学館1974
    • 大森健二二条城建築について離宮二条城小学館1974
    • 土居障壁 御殿白書離宮二条城小学館1974
    • 武田恒夫障壁 御殿大広間式台書院本丸御殿離宮二条城小学館1974
  • 二条城二の丸御殿名古屋本丸御殿名古屋特別開催委員2012

関連項目編集

外部リンク編集