この記事は、ウィキペディアの項目「三都」を素材として二次利用しています。

前記項目と同様CC-BY-SA 3.0のもとで公表されます。

文章の各部をクリックすることで対応部が着色するように改変されています。

操作方法は関数型玩具製作所

三都 - Wikipedia

江戸時代大都市

さん


江戸日本橋よりみる富士山葛飾北斎富岳1830

さん一般近世において江戸幕府直轄だっ都市うちその規模極めて大きかっ大坂江戸指す

概要編集

近世において江戸幕府大名に対し一国一城発し大名武士城下町こと全国規模都市進展各地消費都市生まれ[2]これ都市内部において在地工業発展一方西廻り航路廻り航路街道はじめする国内航路主要整備日本国内市場市場形成促し遠隔商業発展港湾宿場営ま都市港町宿場発展[2]さらに平和継続こと全国規模文化交流観光さかんなり大都市生む条件ここ生まれある[2]

のち並び称される江戸大坂都市江戸時代はじめさん呼ば港湾意味おりこのうち内陸位置するものの琵琶湖巨椋淀川を通じて摂津はじめする西日本一帯近江さらに東海地方北陸地方結ばれる一大物流拠点あっ

都市構成する道路両側間口狭く奥行き長い屋敷立ち並ん向き合う形状両側一般あっ出入り口木戸設けられ夜間閉鎖また近世同様負担単位ある同時に道路橋梁修理防火衛生機能など共同おこなう自治組織あっ式目定め町役人置か町人寄合として町会設け

江戸編集

江戸吉原仲ノ歌川豊国1795

江戸徳川将軍家君主する江戸幕府所在地あり将軍膝元称される政治都市最大城下町あっ[3]

近世以前浅草寺品川あるいは利根川荒川多摩川挟ま港町宿場あっ

1590天正18豊臣秀吉関東攻めにより北条滅亡その後入部徳川家康による都市改造によって大きく成長[3]

幕府機関設けられるいっぽう旗本御家人に対する定府政策によって多くまた参勤交代によって全国大名屋敷藩邸営まその家臣武家奉公人含め多数武士その家族常時江戸居住することなっ[3]

また町人多く密集さまざま種類商人職人日用日雇集まっ近世最大消費都市として繁栄[3]

街道江戸日本橋起点整備水運整えられ

これともない多く物資流れ込んそれ扱う商工業者人口増加18世紀初頭100都市成長宝暦年間1751-1763年日本土地まで称されるようなっいる

江戸16573大火のち寺院武家屋敷郊外移転進み両国橋新大橋永代など建設おこなわ[3]

18世紀初頭世界最大都市成長から大江戸称さその住民気風江戸っ子呼ばれる独特ものなっ[3][4]

江戸巨大消費都市あっ関東地方つくらあり関東平野関東ローム被覆本来必ずしも農耕適合ない土地あっため周辺農村から物資だけ江戸消費まかなうこと不可能あっ

その消費支え流通都市あっ[4]

大坂編集

大坂四天王寺界隈摂津名勝図解初版1798

大坂弥生時代後期から整備古墳時代飛鳥時代奈良時代またぎ港湾都市あり国内流通中心あっ住吉難波中世渡辺あるいはそれ擁する首都行宮ある難波大隈難波高津難波難波などとしてまた戦国時代以降あっ自治都市平野郷石山御坊寺内として発展豊臣政権成立石山本願寺跡地巨大坂城築か再び統一政権拠点なっ

大坂によって豊臣政権崩壊のち江戸幕府ここ西国唯一物流拠点位置づけ再建支援幕府直轄として大坂城代置い

大坂やがて中之島堂島中心大名蔵屋敷集まるようなり年貢換金することによって財政支えところから天下台所諸国台所称さ日本有数商業都市として町人とくに商人として再び栄え[4]

また北前終着あるいは長崎貿易交易中継として役割淀川利用水運拠点として役割なっおり日本最大流通都市あっ[4]

その基礎なっ河村によって整備国内航路大坂市内よう張り巡らさ運河堀川ある[4]

一方後世東洋ヴェニスヴェネチア称さ水運必然多数必要大坂形容する言葉生まれ

大坂上述よう当時生産高かっ西日本後背おり大都市成長江戸消費支え

幕府調査記録文献資料よれ年間1716-1735年から江戸運ば物資醤油灯油原料木綿など多岐わたっいる[4]

商業都市しかし大坂人口 町方人口推移わかるよう天明年間1781-1789年以降衰退転じおりその要因として幕府大坂振興行わなくなっこと大坂商人用金課しこと遣いから金遣い転換など考えられる[5]

京都編集

京都平安京以来王城ありかつて室町幕府置か江戸時代あっ朝廷膝元として重要幕府ここ京都所司代置いいる15世紀後半応仁によって打撃受けもののその復興中心なっ町衆呼ばれる商工業者あっ

京都伝統神社仏閣多く宗派本山集まる宗教都市あり称さ学問芸術中心として栄え反面京都中世以来工業さかんあり当時あっ日本最大工業都市生産都市あり西陣織はじめ日本高級手工業その多く京都生産全国販売ものあっ[6][注釈 1]なお大坂同じ上方ありながらその嗜好気風違い着倒れ大坂食い倒れ表現れること多い

17世紀初頭豪商流れる賀茂川保津川整備さらに高瀬川開削水路ひらい[注釈 2]そこ高瀬舟など中型小舟用いられ舟運物資輸送する手段として発展

交流編集

陸上交通編集

江戸幕府によって中心各地城下町つなぐ全国街道完成とくにむすぶ東海道はじめする街道江戸日本橋起点する幹線道路として幕府直接管理おか17世紀半ば以降道中奉行によって管理近世中期なる陸上交通参勤交代幕府大名物資のみなら商人荷物いっそう活発運送飛脚などによる通信制度整備[注釈 3]このよう陸上交通徒歩牛馬大八車など用いられ中部日本牛馬による長距離運送おこなう中馬発達ものの馬車発達られなかっ

海上交通編集

大量物資安価運ぶ陸路より河川湖沼海洋水上交通適し

海上交通大坂江戸南海すでに17世紀はじめ大型帆船用い木綿醤油など多様日常消費物資江戸運ぶ廻船就航ついで18世紀前半西宮おもに運ぶ廻船就航江戸武士人口多く需要多かっある廻船荷役速く以外商品上積み荷物として安価運送廻船あいだ争い繰り返しこれら定期運航大坂から木綿など下り大量江戸運んその後廻船衰退江戸時代後期なる廻船圧倒的優位立っ

いっぽう17世紀後半江戸商人河村によって出羽酒田起点として江戸至る廻り海運北陸地方山陰瀬戸内地方経由至る西廻り海運整備西廻り航路18世紀以降日本海北前遠隔輸送担うようなり昆布ニシン上方運ば

経済金融編集

亀戸銭座

全国通用する貨幣安定供給すること江戸幕府重要役割あっ規格品質金銀貨幣家康慶長金銀日本いわ金座江戸京都置か銀座当初伏見駿府おかのち京都江戸うつさ銭座江戸近江国坂本おかのち10箇所前後増設これら全国広くいきわたり江戸商品流通飛躍発展ささえ

貨幣城下町両替によって流通促進両替貨間両替秤量生業大坂江戸両替称される有力両替幕府公金出納為替貸付業務おこないその財政ささえとくに江戸三井大坂鴻池天王寺著名ある

全国市場確立海運活発なる江戸問屋大坂問屋よう江戸大坂荷物運送安全海損共同保障流通独占めざし多様職種からなる問屋仲間連合組織つくら仲間

江戸大坂消費商人仕入れ商品納屋農民から徴収年貢特産大量集まり大坂堂島市場天満青物市場魚市場江戸神田青物市場日本橋魚市場など主要商品専門市場発達投機取引おこなわこうした物資問屋仲買小売という商業分業によって運送販売

都市文化編集

日本都市くらべ隔絶都市人口有しいずれ幕府直轄都市あっため武家人口多かっ農村くらべ庶民負担軽いことあり周辺から人口流れ込みいずれ盛り場有し祭礼またさかんあっ近世あっ花木鑑賞芝居浄瑠璃見物遊廓寄席相撲貸本錦絵花火など都市文化生活様式開花ある[7]

広瀬による比較編集

江戸時代後期儒学江戸住んことある広瀬淡窓草堂随筆という随筆について述べいくつ事例挙げながら比較試みいる以下その概要ある

  • 京都
    • 京都矜気多い彼ら江戸大坂いえども田舎あるすむ如くはなし及ぶものない考えいる
    • だが京都なけれ我国日本一統万世万国他国より尊いこと理解できないあろ
  • 大坂
    • 殺気多い彼ら公卿高く貧しく我輩くるへつらうなど挙げいる
    • だが大坂なけれ日本産物多く便利万国他国より富みたること理解できないあろ
  • 江戸
    • 江戸客気多い彼ら諸侯さえ貧しい財政難多額負債抱え時節ある貧しいことなく置い立身する名声得るほういい考えいる
    • だが江戸なけれ日本人口多く諸侯輻湊集中万国他国より繁華なること理解できないあろ

述べそれぞれ異なるものの日本誇るべき都市ある結論付けいる

人口編集

平安遷都以来室町時代まで京都時期によって変動あるものの多い20少ない4推移推定いる安土桃山時代入り発達京都長らく分離上京下京宅地繋がっ30規模成長考えられる江戸時代入っすぐ1609日本漂流ロドリゴ・デ・ビベロ京都人口3040大坂人口20江戸人口15伝えいる江戸時代人口について時期によって変動あるものの多い江戸100以上京都大坂40人口有し推測いる江戸時代を通じて以外名古屋金沢最盛10規模長崎広島和歌山鹿児島仙台最盛6以上有力諸侯城下町いずれ5前後それ以下あっ体制維持ため拠点箇所城下町固定更に経済自由拡大制約ため全国拠点格差生じ考えられる

江戸時代明治初期推定人口遷移 (斎藤誠治, 1984)
主要都市 1650 1750 1850 1873 1879
江戸 430,000 1,220,000 1,150,000 595,905 671,335
220,000 410,000 330,000 271,992 291,565
京都 430,000 370,000 290,000 238,663 232,683

江戸時代後半宗門人別を通じて町方寺社人口集計いるものの武家人口記録としてほとんど残っないため正確人口不明ある

区別面積 (内藤, 19781983)[8]
都市 年代 面積 公家 武家 町人 寺社 空地その他 復元史料
江戸 正保年間
(1647)
43.95 km2 34.06 km2
(77.4%)
4.29 km2
(9.8%)
4.50 km2
(10.3%)
1.10 km2
(2.5%)
正保年間江戸絵図
寛文1013
(16701673)
63.42 km2 43.66 km2
(68.9%)
6.75 km2
(10.6%)
7.90 km2
(12.4%)
5.11 km2
(8.1%)
江戸絵図
江戸絵図
10
(1725)
69.93 km2 46.47 km2
(66.4%)
8.72 km2
(12.5%)
10.74 km2
(15.4%)
4.00 km2
(5.7%)
分間江戸絵図
慶応元年
(1865)
79.8 km2 50.7 km2
(63.5%)
14.2 km2
(17.8%)
10.1 km2
(12.7%)
4.8 km2
(6.0%)
慶応江戸絵図
明治2
(1869)
56.36 km2 38.65 km2
(68.6%)
8.92 km2
(15.8%)
8.80 km2
(15.6%)
後藤新平 江戸自治
京都 (洛中) 正保年間
(1647)
20.87 km2 0.68 km2
(3.3%)
1.05 km2
(5.0%)
8.37 km2
(40.1%)
2.92 km2
(14.0%)
7.85 km2
(37.6%)
寛永万治京都
大坂 暦年
(1655)
15.05 km2 3.36 km2
(22.3%)
8.68 km2
(57.7%)
1.18 km2
(7.8%)
1.83 km2
(12.2%)
大坂三郷絵図

江戸編集

18世紀江戸町方人口50武家人口60寺社人口10合わせ120人口擁する当時世界最大都市あっ[3]その都市武家60パーセント寺社町家それぞれ20パーセント面積占めおり武家占める割合大きい城下町あっ[3]

編集

調査対象あっ武家公家差別階級人口除く

京都町方寺社人口 (1)
元号 西暦 町方人口 寺社人口 出典
総数 洛中 洛外 総数 洛中 洛外
寛永11 1634 410,089 京都役所大概覚書
寛文元年 1661 362,322 前田日記
寛文5 1665 352,344 天日玉露一言
2 1674 408,723 372,810 35,918 天日玉露扶桑半日閑話
天和3 1683 353,707 321,449 32,258 34,435 6,611 27,824 京都役所大概覚書
元禄3 1690 350,549 313,021 37,528 31,532 2,957 28,575 京都役所大概覚書
元禄13 1700 351,692 317,936 33,756 21,280 2,780 18,500 京都役所大概覚書
正徳5 1715 350,986 京都役所大概覚書
344,379 302,755 41,624 14,551 1,818 12,733
元年 1716 350,367 京都役所大概覚書
2 1717 350,033 京都役所大概覚書
3 1718 346,431 京都役所大概覚書
4 1719 341,494 京都役所大概覚書
7 1722 354,802 京都役所大概覚書
14 1729 374,449 345,882 28,567 見聞
15 1730 373,302 344,350 28,952 見聞
明和3 1766 318,016 255,947 62,069 古久保文書諸事
明治4 (本籍人口) 1871 237,674 京都戸籍調
明治5 (本籍人口) 1872 244,883 京都戸籍調
明治6 1873 238,663 日本地誌提要 (寄留12,533含む)

このほか明らか山城全域人口混乱50前後人口伝えたり同じ人口に関して異なる年代記述れるなど信頼低いものある参考まで以下列挙する

京都町方寺社人口 (2)
元号 西暦 町方人口 出典
9 1681 577,548
507,548 雍州塩尻扶桑
6 1721 526,222 見聞
17 1732 526,222 見聞
寛延3 1750 479,956 雪月花
3 1753 526,222 日本古来人口

1691京都訪ねエンゲルベルト・ケンペル京都人口僧侶52169含め529726という記録残しいるこれおそらく山城全土領民人口人数基づく数字推定れる一方文政9(1826)京都訪ねフィリップフランツフォンシーボルト京都人口11700078記載いる根拠不明あるなお6(1721)以降幕府集計山城武家人口除い領民人口以下通りある

山城領民人口
元号 西暦 人口
6 1721 564,994
寛延3 1750 522,626
6 1756 527,334
天明6 1786 507,488
寛政4 1792 506,324
寛政10 1798 480,993
文化元年 1804 469,519
文政5 1822 478,652
文政11 1828 498,296
天保5 1834 488,726
天保11 1840 445,432
3 1846 452,140

参勤交代江戸人口急増する寛永年間まで京都日本最大都市あっ江戸時代後期人口伝える史料残っない山城人口ほぼ一貫減少おり京都人口20万人まで減少考えられる元治元年(1864)69055伝えられる町方戸数から幕末京都人口大坂以上35する試算ある宗門人別研究から28程度推計いる(浜野, 2007)。

一方京都在中武家人口について45005600推定いる[9]

江戸時代中期京都在中推定武家人口 (藤井譲治, 2007)[9]
区分 人口 推定根拠
所司代町奉行禁裏 3,0004,000 大名旗本129与力164
同心480所司代家臣133
奉公人家族
大名派遣 1,000 大名屋敷71(知行家臣23)、
屋敷持たない大名家臣12
奉公人家族
隠居浪人 400500 元禄7浪人172(武家奉公人含む)
大名屋敷後室 100
合計 4,5005,600

京都隣接する伏見伏見奉行置か時期あっ幕末伏見4以上人口有する宿場として栄えまた京都から伏見まで家屋切れ間なく続いおり伏見完全京都続き形成

伏見町人口
元号 西暦 町方人口
元禄3 1690 25,249
元禄13 1700 28,743
正徳4 1714 30,055
明和年中 1770 27,450
天明年中 1786 33,385
天保年中 1843 40,980
明治6 (総数) 1873 22,334

大坂編集

17世紀後半より大坂三郷(南組天満)町方人別詳細伝わっいる町方人別調査対象あっ武家差別階級人口含まない下表本願寺以外僧侶人口指し本願寺三郷町人口含まいる南北町奉行著書伝える3(1738)、3(1743)人口誤記思われる参考まで斜体記載する同様開国記載寛永2(1625)人口松平石見守殿出御覚書記載寛文9(1669)もの一致おり誤記疑われるまた寛永11(1634)、寛永12(1635)人口南組天満内訳とともに伝わっいるこの時期三郷加え伏見存在四郷時代あり年号誤記疑われる

大坂町人口(1749以前)
元号 西暦 合計 三郷町 出典
寛永2 1625 279,610 開国(旧記)
寛永11 1634 402,532 著聞 (149212
174537天満78783)
寛永12 1635 404,929 著聞 (148756
177304天満78869遊女404216)
寛文元年 1661 252,446 開国
寛文5 1665 268,760 玉露
寛文9 1669 279,610 松平石見守殿出御覚書
7 1679 287,891 松平石見守殿出御覚書
元禄2 1689 330,244 松平石見守殿出御覚書
元禄5 1692 346,389 345,524 865 城代支配 (840)
元禄12 1699 364,154 松平石見守殿出御覚書
元禄16 1703 351,708 地方手鑑
宝永6 1709 381,626 松平石見守殿出御覚書
宝永8 1710 372,015 無名
正徳元年 1711 379,511 無名
正徳3 1713 380,149 379,275 874 地方川方御用覚書 (穢多2,341)
正徳4 1714 383,357 382,435 922 地方川方御用覚書
正徳5 1715 375,584 374,684 900 無名
元年 1716 366,304 365,380 924 無名
4 1719 374,498 松平石見守殿出御覚書
6 1721 383,480 382,471 1,009 無名
7 1722 378,007 377,018 989 無名
9 1724 357,091 356,092 999 無名
10 1725 370,156 369,161 995 無名
14 1729 385,431 松平石見守殿出御覚書
元年 1736 390,826 389,866 960 地方川方御用覚書
3 1738 526,813 南北町奉行著書
4 1739 403,724 松平石見守殿出御覚書
3 1743 501,166 南北町奉行著書
寛延2 1749 404,146 松平石見守殿出御覚書

寛延2(1749)以降本願寺以外僧侶人口三郷町人口含まれるようなる元禄16(1703)9各組家数人口構成以下通りある

大坂三郷町方人口(1749)
寺社 家数 人口
237 6,254 74,152 58,137 132,289
241 7,546 83,073 70,975 154,048
天満 90 3,028 26,488 23,433 49,921
堀江新地 33 451 6,519 6,927 13,446
神社 316 288 604
寺院 858 858
寺院 506 36 542
合計 601 17,279 191,912 159,796 351,708

6(1756)以降差別階級穢多統計残っおり参考まで両者合計示す

大坂三郷町方人口(17561856)
元号 西暦 合計 三郷町 穢多 元号 西暦 合計 三郷町 穢多 元号 西暦 合計 三郷町 穢多
6 1756 413,356 409,984 3,372 寛政2 1790 386,617 382,641 3,976 文政7 1824 383,388 378,578 4,810
7 1757 410,784 407,447 3,337 寛政3 1791 389,395 385,407 3,988 文政8 1825 382,771 377,928 4,843
8 1758 413,029 409,631 3,398 寛政4 1792 380,039 376,009 4,030 文政9 1826 385,298 380,351 4,947
9 1759 417,099 413,669 3,430 寛政5 1793 385,844 381,803 4,041 文政10 1827 384,449 379,489 4,960
10 1760 415,016 411,636 3,380 寛政6 1794 388,305 384,170 4,135 文政11 1828 381,135 376,177 4,958
11 1761 420,377 416,957 3,420 寛政7 1795 388,895 384,652 4,243 文政12 1829 379,590 374,689 4,901
12 1762 422,046 418,573 3,473 寛政8 1796 385,709 381,436 4,273 天保元年 1830 376,232 371,252 4,980
13 1763 420,827 417,379 3,448 寛政9 1797 386,196 381,835 4,361 天保2 1831 373,004 367,911 5,093
明和元年 1764 422,359 418,862 3,497 寛政10 1798 383,615 379,274 4,341 天保3 1832 374,295 369,173 5,122
明和2 1765 423,453 419,863 3,590 寛政11 1799 384,866 380,432 4,434 天保4 1833 373,948 368,909 5,039
明和3 1766 421,703 418,086 3,617 寛政12 1800 383,544 379,121 4,423 天保5 1834 364,270 359,290 4,980
明和4 1767 417,251 413,749 3,502 元年 1801 380,519 376,117 4,402 天保6 1835 366,390 361,434 4,956
明和5 1768 414,229 410,642 3,587 2 1802 382,651 378,173 4,478 天保7 1836 364,393 359,419 4,974
明和6 1769 412,997 409,421 3,576 3 1803 379,907 375,531 4,376 天保8 1837 333,187 328,963 4,224
明和7 1770 409,059 405,481 3,578 文化元年 1804 379,062 374,687 4,375 天保9 1838 326,773 322,701 4,072
明和8 1771 404,433 400,909 3,524 文化2 1805 385,832 381,410 4,422 天保10 1839 331,759 327,557 4,202
安永元年 1772 405,106 401,544 3,562 文化3 1806 388,158 383,653 4,505 天保11 1840 341,521 337,215 4,306
安永2 1773 406,556 403,021 3,535 文化4 1807 387,588 383,177 4,411 天保12 1841 346,207 341,906 4,301
安永3 1774 407,818 404,257 3,561 文化5 1808 389,076 384,651 4,425 天保13 1842 354,754 350,422 4,332
安永4 1775 411,969 408,293 3,676 文化6 1809 385,746 381,340 4,406 天保14 1843 336,389 332,072 4,317
安永5 1776 410,055 406,379 3,676 文化7 1810 385,617 381,169 4,448 元年 1844 339,379 334,879 4,500
安永6 1777 407,077 403,467 3,610 文化8 1811 386,217 381,735 4,482 2 1845 344,093 339,545 4,548
安永7 1778 406,061 402,360 3,701 文化9 1812 385,271 380,793 4,478 3 1846 342,423 337,842 4,581
安永8 1779 408,717 404,964 3,753 文化10 1813 386,483 381,962 4,521 4 1847 341,707 337,094 4,613
安永9 1780 408,504 404,818 3,686 文化11 1814 382,725 378,253 4,472 元年 1848 340,234 335,705 4,529
天明元年 1781 411,044 407,322 3,722 文化12 1815 378,570 374,008 4,562 2 1849 338,261 333,748 4,513
天明2 1782 409,773 405,961 3,812 文化13 1816 377,591 373,045 4,546 3 1850 330,637 326,187 4,450
天明3 1783 403,611 399,777 3,834 文化14 1817 375,470 370,902 4,568 4 1851 321,920 317,595 4,325
天明4 1784 384,395 380,710 3,685 文政元年 1818 374,204 369,687 4,517 5 1852 321,053 316,784 4,269
天明5 1785 384,207 380,416 3,791 文政2 1819 377,129 372,586 4,543 6 1853 323,247 318,988 4,259
天明6 1786 383,903 380,098 3,805 文政3 1820 378,940 374,368 4,572 安政元年 1854 321,664 317,436 4,228
天明7 1787 375,435 371,740 3,695 文政4 1821 382,924 378,211 4,713 安政2 1855 321,166 316,919 4,247
天明8 1788 376,469 372,729 3,740 文政5 1822 381,684 377,029 4,655 安政3 1856 325,037 320,780 4,257
寛政元年 1789 381,529 377,729 3,800 文政6 1823 383,551 378,926 4,625

(以上出典町奉行一式城守三郷並穢多村兵庫西宮塩飽島人数高帳)

明治元年(1868)以降人口身分含む本籍人口

大坂三郷町方人口(1857以降)
元号 西暦 合計 三郷町 穢多 出典
安政4 1857 323,956 手鏡
安政5 1858 318,400 314,370 4,030 斎日雑記
安政6 1859 312,986 308,978 4,008 斎日雑記
文久元年 1861 308,192 斎日雑記
文久2 1862 301,093 斎日雑記
明治元年 (本籍人口) 1868 281,306 国史
明治6 (本籍人口) 1873 271,992 日本地誌提要

大坂荒廃すぐ復興元禄年間京都人口追い抜い町方人口だけ40超え幕末30まで減り明治時代人口20なっ大坂奉行奉行兼ね時期あり江戸時代都市築い主張するいる少なくとも天王寺 (明治616560)、難波(明治68128)など秀吉による大坂城下町形成当時から続き形成豊臣時代大坂城下町一部として平野郷から移住中心なっ建設南北平野 (明治66796)江戸時代設定大坂三郷含まなかっ

18世紀後半天明時期なる大坂三郷周辺続き大坂町奉行支配入っ天明元年(1781)における東成野田西成川崎北野曾根崎上福島下福島野田野田道建九条西九条村但安治川北壱丁目続建家三軒家勘助西側西高[曖昧回避]町口野畑津屋吉右衛門肝煎東成北平野町南平野町東高津[曖昧回避]天王寺含ま江戸時代後半大坂三郷人口減少郊外形成伴う一種ドーナツ現象あるという側面指摘いる(速水, 2005)。

その一方司馬太郎などにより江戸時代大坂在中武士人口わずか200という誤解流布いるこれ東西町奉行与力同心のみ数え大げさ表現あり坂城家族人口含まない公私要覧記載武鑑研究成果により大坂三郷実際暮らし武家人口8000から1程度推定いるそれでも武家人口占める割合大坂人口2%3%程度あり時代城下町比較武家人口割合かなり低い以下江戸時代後期大坂在中推定武家人口まとめる軍役8(1723)制定足高基く示すよう大坂城内居住武家人口40%占めここ示す8000という推定人口低め見積もり特に城代定番勤める大名家老公用家中家族同伴あっするなら坂城下屋敷暮らす武家人口さらに加算れる最近武士としてスポットあて意外取り上げ書籍出版いる

江戸時代後期大坂在中推定武家人口 (田貫, 2010)
区分 人口 推定根拠
坂城大番 980 東西2×(番頭1×軍役104組頭4×軍役14
大番50×軍役6与力10同心20)
坂城 1,000 山里(27000)中小屋(18000)青屋(1)雁木(1)4
×平均軍役250(武士徒歩足軽中間従者その他)
大坂城内目付 30 書院台所居間15箇所×2
坂城城代定番 1,0801,475 城代軍役610(3)~1,005(5)
京橋玉造2×定番軍役235(1)
大坂城内上屋敷城代定番家族奉公人 70 城代家族奉公人30京橋玉造2×定番家族奉公人20
町奉行奉行 210 東西町奉行川口奉行3奉行×(奉行家族奉公人10
家臣下僚15×家族4)
奉行 350 東西2×鉄砲具足材木奉行7(鉄砲奉行2)
×(奉行家族5家臣下僚5×家族4)
代官 90 鈴木町谷町2代×代官家臣下僚15×家族3
与力同心 (大番付属除く) 3,000 与力同心733(玉造京橋定番2東西町奉行2)×与力30
川口奉行1×与力10(玉造京橋2)×同心100
天満東西2×同心50川口1×水主50
奉行付属同心130(鉄砲奉行50奉行20具足奉行12
奉行15奉行18材木奉行15)
13小揚46小揚100
 4家族なら29325家族なら3665
蔵屋敷 900 90×留守居家族10
合計 7,7108,105

近代編集

1920日本人口上位都市
1 東京 2173201
2 大阪 1252983
3 神戸 060万8644
4 京都 059万1324
5 名古屋 042万9997
6 横浜 042万2942
7 長崎 017万6534
8 広島 016万0510
9 函館 014万4749

明治以後設置市制成立暫く特例敷かれるなど長きにわたって重要いくことなっ

1878明治11人民輻輳すなわち人口多い都市に対し町村編制によって1都市あたり1存置江戸後身たる東京および京都大阪複数置かれるという大都市制度導入1889明治2241市制施行に際して一般廃止なる一方東京大阪京都存置まま市制施行するという特例実施当時一般市会推薦市長置かに対し市長置か内務省任命府知事そのあたっそれゆえかつて一般比較あり自治制限おり[10]自治拡大要求する特例撤廃運動起こっいるこの運動によって特例1898明治31廃止比べ隔絶人口有する東京さらに東京から独立要求する特別運動発展明治この動き大阪加わっいる[11][注釈 4]

大正デモクラシー入るかつて加え人口規模これら都市匹敵する名古屋また当時港湾都市ある神戸横浜6都市互いに協力特別運動展開するようなっ[10]1922大正11この運動ようやくむすび大都市行政監督スル法律定められ大都市特別として扱われるようなっなお1943昭和1871東京東京布かれる一方こる大都市について大都市行政監督特例施行

脚注編集

[脚注使い方]

注釈編集

  1. ^ 江戸時代あっ商人他人カネ貸し出すときいったん寺社カネ預けそこから資金必要するたち借りる名目スタイル採用貸し倒れ防いその寺社多い京都有利はたらい大石1996p.13
  2. ^ 整備河川富士川などある
  3. ^ 飛脚幕府公用飛脚大名飛脚のち飛脚うまれ
  4. ^ 1917大正6東京16大都市事務協議1919大正8京都16大都市市長会議開かいる

出典編集

  1. ^ 都市世界百科事典 平凡社
  2. ^ a b c 大石1995pp.3-5
  3. ^ a b c d e f g h 1992pp.184-186
  4. ^ a b c d e f 大石1995pp.10-11
  5. ^ 大阪商工会議佐藤茂雄会頭講演"2012101 大阪経済大学80周年記念講演"
  6. ^ 大石1995pp.12-14
  7. ^ 深谷1993pp.375-384
  8. ^ (a) 内藤, 江戸その築城都市計画, 月刊文化財, (175), pp.1529 (1978). (b) 内藤, 江戸, 思社, 1982. (c) 内藤, 都市構造における職人ありか, 歴史公論, 9 (8, 通巻93), pp.7682 (1983).
  9. ^ a b (a) 藤井譲治, 世紀京都都市構造武士位置, 金田章裕, 平安京京都都市都市構造, 京都大学術出版 (1997).
  10. ^ a b 1 大都市制度改革背景 (PDF) 名古屋
  11. ^ 指定都市制度あらまし > 大都市制度確立向け動き > 戦前特別市制運動指定都市市長

参考文献編集

  • 賀川隆行崩れゆく鎖国集英社集英社版日本の歴史141992年7月ISBN 4-09-461009-X
  • 玲子大石三郎流通列島誕生講談社講談社現代新書199511ISBN 4-06-149261-6
  • 深谷克己士農工商小学館小学館ライブラリー大系日本歴史919934ISBN 4-09-461009-X* 幸田成友大阪大阪参事1911
  • 柚木堀江保蔵本邦人口経済研究71882101930
  • 高橋梵仙日本人研究三友1941
  • 西山松之助大阪兵庫西宮塩飽人口統計 1757 (7)–1856 (安政3)歴史研究15726281952
  • 松本四郎日本近世都市東京大学出版1983
  • 渡邊忠司町人 大坂物語中公新書1993
  • 近世都市住民研究清文出版2003
  • 斎藤江戸時代都市人口地域開発(9)、48631984
  • 速水工業日本都市人口分布大学経済学会13 (1)、47592005
  • 浜野近世京都歴史人口研究慶應義塾大学出版株式会社2007
  • 田貫武士 大坂中公新書2010